パウロの回心

山本三和人

 神の前に立つことなく、自分の生の矛盾に気づくことはできません。神の啓示の光の照射を受けることなしに、私たちの生の闇の真相を見極めることはできません。パウロが熱心なユダヤ教徒として、ことに汚れた世から清め分かたれたパリサイ主義者として、キリスト教徒の逮捕と投獄の業に明け暮れていた頃に、自分の罪に仕えて動き回っているなどという意識をもっていたでしょうか。裁きの人の立場に身をおいていた人ですから、強い正義感はあったでしょうが、自分が自分の内に宿っている罪に仕えているなどとは夢にも思っていなかったと思います。キリストにある神の光の照射を受けたとき、はじめて彼は罪に仕えている自分の醜い姿を見たのです。律法が人間の罪の真相を映して見せる鏡であるという認識を与えられたのでは、キリストにある神の光の照射を受けてからのことです。目からうろこのようなものがとれて、神と罪に宿を貸してこれに仕えている自分の真実の姿が見えはじめたのは、彼が復活のキリストに接していたからのことです。キリストを信じキリストの光の下で、彼は初めて心ならずも内に宿る罪に仕えている自分を発見したのです。パウロが自分の信仰生活の中で、神と悪霊の両方に仕えてる矛盾を告白したのは、決して回心以前のことではありません。

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