律法の光
山本三和人
元来、律法は神の言葉であり、聖にして善なるものであります。聖書にも「律法を行う者は、これによりて生きる」と述べてあります。しかし、この戒めはけっして律法主義のテキストではありません。律法の戒めに応えることによって救いにあずかろうとすれば、救いにあずかるどころか、身も心もぼろぼろになって死んでしまいます。人間には律法の戒めに応える力がないからです。ではパリサイ人たちは、なぜ律法に接しながら律法の戒めを正しく聞き取らなかったのでしょうか。それは、彼らがキリストを拒否したからです。立法の言葉が光を放つのは、それにキリストの光が当てられたときです。例えば、キリストの光の下では「隣人を愛し、敵を憎め」という戒めが「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という戒めに変わります。キリストの光を受けて、律法にある神の要請の光は倍加します。この律法の光に照らされて、死の苦しみを味わわない人は一人もいません。律法の光を受けて、「わたしはなんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ロマ7:24)と叫ばない人はありません。しかし、律法の光を受けて心砕かれ、救いを求める人にして、はじめてイエス・キリストのご誕生をお迎えすることができます。