生の変化と流転に処する道
山本三和人
キリストの証人としての信仰者は、鷲のような鋭いまなざしで、時代の動向と時のしるしを見分けて、その時代にふさわしい言葉を選び、生き方を確立して、神の証人としてのつとめを果たさなければなりません。しかし、ただ一つ問題があります。生の変化と流転に処する道を求めるのは当然のことですが、それを何処に求め、何に見出すかということが問題です。パリサイ人や律法学者たちは、変化と流転とそれからくる不安に打ち勝つ道を律法に求めました。「世は変わり時代は移る。しかし神の言葉は永遠に変わらない」という彼らの着眼に狂いはありませんでした。しかし律法に対する接し方を誤ったため、「律法そのもの」の前に立つ代わりに、律法ではあにただ律法らしく見えるものの前に立って、自分たちの宗教生活を確立しようとしたのです。彼らは神の律法に親しみ、律法に忠実に生きることで生の変化と流転から解放される戸信じ、事実、律法の戒めをおこなうことによって、何ものも奪うことのできない安らぎを得たと確信していました。彼らが「律法に誇り律法に安んじて」いられたのはそのためです。しかし、彼らが親しみ学んでいた律法は「律法そのもの」ではなく、彼らが描いた律法のイメージでありました。それ故にキリストを必要としませんでした。人間化された律法には、生の空しさに打ち勝つ力も、生の不安を取り除く力もありません。