信仰姿勢の反省

山本三和人

 イタリアの作家ガレスキーの作品に出てくる神父ドン・カミロが「私は不幸だからといって神に祈らない。幸福だからといって神に感謝しない」というのがあります。この考えではもし幸福だからといって、神に感謝するのが当然だとすれば、不幸な人が不幸だからといって神を呪うのも当然です。私はこの言葉に接したとき、あの戦争から無事に生還できたことを自分の祈りの成果として口にしたことを心から恥じました。「私の戦場での祈りが神に通じ、神は再び私を妻子のもとへ帰してくださった」という私の言葉を、戦死した兵たちの親や子供が聞いたらどんな気持ちになられるでしょうか。私たち親子は神を信じることも、また祈ることもしなかった、だから戦死しても当たり前だ、と思う人がいるでしょうか。「祈って救われた」とか「信じて幸福になった」とかいった類の証言が伝道の言葉でもあるような空気が、教会の中にみなぎっているとすれば、背神の強いこの神父の言葉は、実は私たちの信仰の姿勢に真剣な反省を促す言葉であることがわかります。キリスト教は律法主義でもなければご利益信仰でもありません。自分の幸せや救いのために、神を信じたり、神に祈ったりする宗教ではありません。神は決して人間の幸福の手段ではありません。神は教会の主であり、世界の主です。私たち人間の幸福や救いは、この主なる神の告白と信仰の賜物、すなわち結果であって目的ではありません。

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