当為と現実

山本三和人

 

 世界に当為の姿と現実の姿があるように、人間にも当為と現実があります。人間には宗教心や宗教性がありますから、何かにつけて神を思い、苦境に陥ると神に救いを求めます。しかし、彼が求める神は、自分の願いを聞いてくれる神、自分に都合のよい神、自分の期待と願望で描いた偶像の神であって、決して真実の神ではありません。ですから、パウロは「彼らの目の前には、神に対する恐れがない」とか、「神を求める者はいない」(ロマ3:10)と言うのです。人間もまた世界と共に、当為存在、すなわち本来あるべき姿を崩して、そうあってはならない罪人に転落しています。このごろ都会を捨てて大自然の懐に帰る人々が少なくありません。人間不信が彼らを自然の懐へ導くのです。しかし、人間悪は裏切らないという思いが、人々を都会から自然の懐へ導くのです。しかし人間悪は、大自然にも感染しはじめています。人間と世界ならびに大自然の現状は、「地とそれに満ちるもの、世界とそのなかに住むものとは主のものである」などとは言えなくなりました。人間も世界も本来あるべき姿を崩して、あるべからざる現実の姿になってしまっています。今ある現実の自然や世界を、このまま神のものとして容認することはできません。私たちは、現実の世界を神のものとして承認することができないように、現実の人間を神の子として承認することは、決してできません。

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