冷たくも熱くもない

山本三和人

 よく、日本人は神や宗教にに無関心であるといわれます。神に反抗もしないかわりに、神を信じるようにもなかなかならないと言われます。でも見方によっては、日本人ほど宗教的な民族はないかも知れません。お祭りが好きで、神仏に願をかけたり、誓ったりするのが大好きです。受験の季節になりますと、合格祈願の若者と父母が神社に群がります。しかし、そのような人々が、神や宗教の問題に熱く燃えているとは思いません。でも冷たく冷えているとも言えません。それは人間の誰のもある宗教心、もしくは宗教性の現れであって、神の側から見れば、冷たくも熱くもない、「生温かさ」そのものです。(黙示3:15)。しかし、このような意味での宗教心、もしくは宗教性の豊かな人には、はじめからきわめて宗教的でありますから、信仰が回心(conversion)の出来事にはなりません。私たち日本のキリスト教徒はどうでしょうか。もし、私たちが「おがみや」的信者になっているとしたら、あるいは「からし種一粒ほどの信仰があれば山を動かすことができる」という主のみ言を無視して、自分の宗教心を絶対化しているようなことがあるとしたら、冷たくもなく、熱くもない、生温かさにおちいっているのは、実は私たち自身ではないでしょうか。

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