山本三和人

 私たちは「罪」を私たちの思いや言葉や行為による律法違反と思いがちですが、聖書が述べている罪とは、私の中に宿っているが、私でない別の人格のようです。「もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」(ローマ7:20)
というパウロの言葉によって表現される罪とは、ドストエフスキーのいう「悪霊」であるように受け取れます。すなわち、私の内に悪霊が宿っていて、その主義と支配を私たちの思いと言葉と行為の全領域に広げようとしている。その主権を受け入れその支配に服することが罪である、と聖書は教えているようです。罪の主権と支配に服することが罪であるというより、むしろそれは「死」であるということのほうがわかりやすいように思われます。パウロは「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)とはっきり述べています。この言葉は、罪が私たちの主人であるということを明らかにしています。罪が私たちの主人であるということは、私たちが罪の奴隷であるということです。罪と私たちの関係が主従の関係であるということは、「罪の僕」「罪に仕える」「罪の支配」というように、罪の主体性または人格性を示唆する言葉からも知らされます。私たちが、善と悪との間、生と死との間、当為存在と現実存在の間で、選びの自由と能力を失っている的を外した存在である、というのが罪人であるということです。

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