自覚的存在と責任的存在

山本三和人

知と情と意が調和よく発達している人のことを私、たちはよく人格者と言います。すなわち円満な人柄の人のことです。しかし、人格とは円満な人だけにあるものではありません。それはある条件のもとでだけ形成されて現れます。人格とは自覚的存在であり責任的存在のことです。自覚も責任もないものを人格者と呼ぶことはできません。では自覚や責任はどのようにして生まれるのでしょうか。それは自覚は他から生じ責任は他に対していだかれます。そして、私たちが誰の前にたち、誰と交わるかということによって、自覚と責任の内容が変わります。たとえば、私は罪深い人間であるという自覚は、私が神の前に立つときにだけ生まれます。どんな立派な人であっても同じ人間である場合には、その人の前に出ても罪の意識をいだくようにはならないでしょう。人はみな罪人であり、間違いも失敗も犯しますから、自分だけが特に罪深い人間であるとは思いません。責任についてそうです。すなわち私が誰の前に出るかということによって、私は責任を感じたり、感じなかったりします。私が罪人であることに対して深く責任を覚えるのは、私が神の前に立つときだけです。私と同じ罪を犯している人の前では、自分の罪だけを責める気になれません。真実の意味での他者との交わりを欠くところでは、人は自覚的存在とも責任的存在ともなれません。したがって、そこでは人格的存在となることはできません。

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