ことばの世界―〈光〉と〈風〉ことば(5)

(「LOGOSNo.34」1992.7 )

栗原敦(実践女子大学教授)

おおあのとき私はどんなに見えた?
風のすきとおたあの笹っ原で
遊ぶ小狐のようにあどけなく見えた?
それとも光っているポプラの

(永瀬清子)

 「用心ぶかい者は損をしない。/しかしよく願う者はより大きくよろこぶ。/そしてよく願うためには多くの苦と欠乏が要る。」上に第一連を引用した「古い狐のうた」が収録されている詩集『あけがたにくる人よ』(’87)の「あとがき」のなかで永瀬清子(1906〜)は記していた。
それは老いた自分は「すぐ物忘れをしたり」して、「虫くい」ができた「秋の木の葉」にようなものだと自認しつつ、なお「枝についている間はまだほめことばを」、 「願いを云おう」と言って記した言葉なのであった。

 「苦と欠乏」が若き日と無縁だと言っているわけではない。そうではなくて、「毛の切れた古い狐」である「私」、「岩にとりついている海草のように」「打ちゆさぶられている」「私」(第二連)の今こそ、全てを移ろわせてしまう「うつろな」「形ない」「つれない時」(第三連)というものが痛切に解る。だから、「あの時、私はあなたにどうみえた?/風のすき通ったあの夏の日に/私は笹っ原で遊んでいる小狐のようだった?/金の切口を持って光をばらまいている/もしかしたらあのポプラのきのようだった?」と「あなたにおききしたい」(第四連)のだというのである。

 「小狐」と「ポプラの木」に例えられた「『形のないもの』のほんとうの中味」、すなわち「あの時の祈り、あの時ののぞみ」、それこそはおそらく、<いのちの永遠の今>とでも呼ぶべきもの。それゆえ、詩人が問いかけている「あなた」は、直接には詩人と生を共にした人であろうが、同時に詩人はその人をこえた存在をものぞみみていたに違いない。

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