先生はただひとり

          ――自由学園とF.L.ライト―

中 野 光

1.自由学園の創立とそこでの教育

「私たちの学園には先生はいません。大人も子どももお互いに学びあいましょう。

 ただ、ひとりだけ先生がおられます。それはイエス・キリストです。」

これは1921(大正10)年に羽仁もと子・吉一夫妻によって創設された自由学園の教育理念だ、といわれています。羽仁もと子は1931年、フランスのニースで開かれた「世界新教育会議」における講演でそう語った、といいます。(たぶん英語訳があったはずで、私も探したのですが、原文は見つけられませんでした。したがって不正確な日本語かもしれませんが基本的には間違いないはずです。)

羽仁夫妻が池袋に近い「雑司ヶ谷上り屋敷」に自由学園を創設したのはいわゆる「大正デモクラシー」の高揚期のことでした。創設の直接的理由は長女の説子・次女の恵子を当時の女学校へは進学させたくない、と考えたからでした。未来の自律的な女性にふさわしい独自の教育があるはずだ。文部省の定めた堅苦しい良妻賢母主義の教育ではない、人間教育の場を作りたかったからでした。ですから文部省の「高等女学校令」の規制を受けない「素人教育」から出発することを願って、自由学園を創ったのでした。そこでの「自由」とはヨハネによる福音書にある「真理はあなた方を自由にする」という文言から採ったものでした。    

生徒たちは羽仁もと子を「ミセス羽仁」、吉一を「ミスター羽仁」と呼びました。

そのような発想で新しい学校を創ろうとしたとき、家庭と学校の機能を統一した教育形態があると考えました。新しい学校の建物を子どもたちのためにまず考えなければなりませんでした。 そこで当時、帝国ホテルの設計のために来日していたフランク・ロイド・ライト(F.L.Wright―18671959)に設計を依頼することにしました。羽仁夫妻と親しくしていた日本の若い建築家でライトの許へ留学していた遠藤新が両者の仲立ちの役を果たしたといわれています。

羽仁夫妻とライトはおそらく膝をつきあわせて何度もそれぞれの学校教育についての経験や識見、あるべき学園の構想を語りあったにちがいありません。ライトはアメリカに「ホーム・スクール」という家庭と学校の機能を統一した教育形態があることを知っており、学校の建物がただ子どもたちをたばねて収容するだけで、人間的ぬくもりの欠けた大きな箱のごときものであってはならない、ことを強調しました。羽仁夫妻も日本の学校が軍隊の兵舎に似た画一的な構造の建物であったことを批判していましたから、両者の意向は期せずして一致しました。羽仁もと子は次のように書いています。         

 「自由学園はちょっと見ると、ぜいたくなように思われるかもしれません。けれども一度この家の中の生活を本当に注意して細かに見てくださいましたら、どなたも子どもたち、学生たちのまめやかな謙遜な生活ぶりに気がついてくださることでしょう。」

何しろ国際的に建築界の「鬼才」といわれていたライトの協力が得られたことは羽仁夫妻にとって願ってもない幸運でした。

「私どもの限られた財力で、質素に質素にとつくられたわが学園の中にライトさんのような建築美術家として世界的な人物の趣味や思いの籠められるのは思いがけぬ幸いでありました。」とも述べています。土地面積が350坪の上に工事費・設備品の合計が当時の金額で十万円足らずで完成した、といわれています。しかも、学園の教育経営の特徴は「自労自治」で「雇人なし」という原則でした。昼食も生徒たちと父母のボランティアだけでつくり、学園は「それ自体が社会」という考えを創設以来の教育原理としました。1923年の関東大震災のときには周囲のほとんどの家庭が倒壊・罹災した中で、唯一健在であった学園は罹災者の救援のために開かれ、炊き出しや救援活動など、生徒たちの目覚ましい働きは地域の人々を感動させたといわれています。

1931(昭和6)年、十周年の記念行事には「出エジプト記第十三章の『エホバ彼らの前に行き給い、昼は雲の柱もて彼らを導き給い、夜は火の柱もて彼らを進ましめ給う』言葉をテーマとした大壁画を生徒たちが描きました。また、正面石畳の上ではロビンフッドの英語劇を演じた、と記録されています。ライトの建築の素晴らしさは自由学園の発展を支えていった、といえましょう。なお、学園はそこでの教育を社会に拡げることをめざして、学園に隣接し『婦人の友』社を設立して、1928年には「自由学園消費組合」を結成しました。そして1934(昭和9)年には郊外の東久留米市南沢に、より広い新天地を求めて第二のキャンパスとし教育の場を移しました。

 2.歴史の風雪にたえた明日館(みょうにちかん)の歴史

戦時下の自由学園の教育については、私の研究は断片的なことだけ知る機会はあっても、ていねいな研究調査をしないままで時を過ごしてしまいました。ただ、学園の本館・明日館と呼ばれていたライトの建物へは、その近くに親しい先輩の家があったこともあり、時々参観させてもらったことがありました。

 また、その後、私はそこで学ばれた羽仁夫妻の長女・羽仁説子さん、羽仁さんの親友だった矢嶋せい子さん、そして羽仁さんとともに「日本子どもを守る会」の仕事をされた菅間きみさんと親しくさせていただく幸運に恵まれました。羽仁さんは矢嶋さんに私のことを「中野さんは私たちの息子のような人なのよ。だってお母さんが私たちと同じ明治36年生まれの方なんだから……」と紹介されたこともありました。また、外国人を自由学園に紹介したこともありました。そのようなとき、私は明日館という美しい建物が次第に汚れ、風雪にさらされて痛みがひどくなっていることが気がかりでした。

ですから、とくに1990年代に至って卒業生や日本建築学会などの関係者が「自由学園の明日館と講堂を保存する会」を結成し、国際的な運動をすすめられていることを知ったとき、私も市民のひとりとしてそれに参加しました。199215日のニューヨーク・タイムズに「東京に残るF.L.ライトの最後の建物を守ってください」という意見広告を出して注目されました。また日本国内では19946月、東京新宿で「日本に残るライトの建築展」が開催され、記念講演会も開かれました。私にも「日本の学校史における自由学園の建築」と題してお話しする機会が与えられました。この展示会(1週間)には主催者の予想をはるかに上まわる七千名以上の入場者がありました。

 当時の自由学園の理事会はこのような運動に支えられて、19971月に政府(文化庁)に対し「自由学園の建物に『重要文化財の指定』を求める」申請を行い、それが認められました。私が知るかぎり、それは二十世紀の学校建築で重要文化財に指定された最初のものだったはずです。しかも、その指定を受けますと、建物の修理に要する費用の75%は国費でまかなわれ、建物はそのまま教育活動を続けることができる「動態保存」ということになります。私はその朗報に接したとき、ライトの次のような言葉を思い出しました。

「建築はもともと囲いであり、箱であった。民主主義の国の若い建築家として、私は意識的にその囲いを破ろうとした。」

「個性がなければ創造はない。人間的なものは、とくに民主主義のもとでは、個性によって生きることができる。われわれの教育と行政は、個性を発見し、育て、護ことに努めなければならない。」

これを読みますとライトという人は単なる建築家ではなく、学校教育の改革に対してするどい提言をしていた教育理論家でもあったと思いました。そして日米両国には学校建築を媒介とする友好的な国際交流史には豊かな遺産があったことがわかりました。

なお、わたしはここでライトと共に1921年に来日し、戦後も日本で活躍した米国人の建築家A,レーモンドのことにも触れておきたい、と思います。彼は東京女子大の総合計画と建築デザインに携わったことをはじめとして、東京聖心学院、神戸聖心学院、アメリカ大使館などいくつもの著名な建物の設計に当たるとともに、前川國男や吉村順三のような優れた日本の建築家を育てたのでした。

しかし、A.レーモンドは1930年代に日本が暗い雲に覆われたような政治状況に立ち至ったとき日本を去って、インドへ逃れました。そして戦後間もなく日本に帰り建築家として貴重な活躍をしました。彼はライトに勝るとも劣らぬ日本の文化を愛した親日家でした。彼の残した文章の一節に次のような言葉があります。

「日本のほかどこの国の文明において、美とは捨て去ることである、ことを示した国があったであろうか。

単純化と無駄を捨て去ること、美しさを昇華させることこそが優れた人間の優雅さといえる。本質的なものを残してすべてを取り去ったとき、それでも残る本質と原理こそが日本の文化の魅力の源泉である。」

レーモンドが戦後間もなく日本に帰ったとき、最初にとりくんだ仕事は東京竹橋の「リーダース・ダイジェスト日本支社」でした。以後、南山大学、立教高校(志木)のチャペル、新潟県新発田のカソリック教会など著名な建築を残して1994年に帰国し、その2年後(1976年)に亡くなりました。

3、シカゴ大学を訪ねてわかったこと

ところで、私は1997年の夏、中央大学から研究休暇を与えられ、妻とシカゴ大学を訪れることができました。それは私にとって長い間ひそかにあこがれてきた夢の実現でした。というのは、そこは二〇世紀の世界の教育に最も大きな影響を及ぼしたといわれる教育学者J.デユーイ(J.Dewey18501952)が活躍したところだったからです。デユ―イの学説は日本や中国にも及び、大正時代には来日して、東京大学で教育改革について講演しました。その著作は当時の日本の教師や学生たちにも読まれました。私も学生時代に『学校と社会』という彼の著書(講演記録)を岩波文庫で読み、とくに次の文言に深い感銘を受けたことを覚えています。

「旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子どもたち以外にある、という一言に尽きる。重力の中心が教師、教科書、その他どこであろうとよいが、とにかく子ども自身以外の直接の本能や活動以外のところにある……。

いまやわれわれの教育に到来しつつある変革は、重力の中心の移動である。それはコペルニクスによって天体の中心が地球から太陽に移された時と同様の変革であり、革命である。このたびは子どもが太陽となり、その周囲を教育のもろもろの営みが回転する。」

このデユ―イ学説は国際的に「新教育」の指針となったのでした。

話しがやや細かいことになりますが、

デユーイはその学説の正しさを実証するために「ラボラトリー・スクール」(実験室学校と名付けた)をシカゴ大学に特設したといわれ、その研究成果を父母や教育関係者たちに報告したのが、先の『学校と社会』という名著の内容なのでした。

そんな私がシカゴ大学に行こうと決めたとき。誰か通訳を兼ねた頼りになるガイドを務めてくれる人がいたら……と思っていましたが幸いにも慶応大学で教育学を学んで、シカゴ大学に留学中の青木さんという方がおられて助かりました。

青木さんから教えられたことはたくさんあったのですが、私にとって最も新しい発見はシカゴ大学から歩いてわずか数分のところに、デユ―イが創って今はシカゴ大学が管理責任を持つ「デユーイ・スクール」という小さな学校があり、それをこの目で確かめることができたことですが、さらに驚いたことはその近くにF.L.ライトの建築事務所だったという建物が保存されていたことでした。

そのことを知った私は「これは偶然ではない」と思いました。ライトが日本の自由学園の設計を引き受けたという事実の背景には、デユ―イの学校教育に関する理論があったのだ、と直感したのでした。私と青木さんとは、そうした私の研究的仮説にについて話し合うことになりました。デユーイの名著『学校と社会』の原典・“The School and Society”のThe Schoolとは学校一般ではなく、デユ―イが未来の学校と願う“The” School なのだ、ということです。デユ―イの教育思想はライトを通してThe School・自由学園の中に生きたといえましょう。

もう一つ、自由学園の歴史の中で忘れてならないことをつけ加えたいと思います。それは、1930年代の半ばに、日本政府が「自由」という言葉を 日本社会から排除すべきだとして、自由学園に改名を迫ったときのことです。その時、羽仁もと子は毅然として一人で陸軍省に行き、その不当性を論駁し、改名を拒否し続けたといわれています。その勇気ある決断と行動は、この学園の教育理念である「ただひとりの先生」に見守られていたからこそ実践できたことであったに違いありません。

<追記>

 明日館は重要文化財の指定を受けて、毎週金曜日(要・確認)に一般公開されています。自由学園関係の諸資料や関係者の工芸作品なども展示されています

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