戦中から戦後へ (3)


「人物事典」に描かれた山本三和人牧師
     


中野  光

 はじめてロゴス教会で山本三和人先生の証言を聞いた直後、私は1977年に朝日新聞社から刊行された『現代人物事典』に「山本三和人」の名ものっていたことを知った。この事典の編集には私もすこしばかり協力したこともあって、ずっと手元において愛用してきた。 それは単に各人物の経歴などを紹介したものではなく、その人の歴史的役割りを生き生きと描くように紹介したもので、なかなか読み応えのあるものだった。

 「山本三和人」については、次のように書かれていた。

「山本三和人」 やまもとさわひと

   牧師。1908(明治41)年1月2日佐賀県生まれ。青山学院神学部卒業後、38年千葉県大原福音教会牧師となる。山本は「戦死」を美化する当時の風潮にキリスト教牧師の立場から「死は人間にとって拒否し、戦うべきものである」と説教、自ら編集発行にあたっていた『十字架』誌上でもそのことを強く訴えた。ために、毎週のように特高警察(思想・言論・社会運動等を取り締まる特別高等警察;筆者注)に呼び出されて尋問を受け、説教は特高監視のもとに続けられた。45年ロゴス教会を創設。49年に東京目白に教会堂を建て英語学校を併設、若者に「自由の重み」を説き、「開かれた教会」を目指す。また同教会を拠点に鶴見俊輔、壺井繁治、大江満雄らと「文化講座」を開き、『アジア詩人』をだす。著書に『神への反抗』、訳書にW.E.ホプキング『人間形成の方向』がある。山本は戦前戦後を通して、終始一貫キリスト教倫理に基づく人間尊重の立場を貫いてきた。また、一貫して平和への意志に支えられる『ロバの耳』発行人でもある。(鈴木晴久)」

ロゴス教会で私も山本先生の証言を聞くことができるようになった。ある日、山本先生に「大原教会時代の先生が特高警察に呼び出され尋問や警告を受けたというのは具体的にはどんなことによってだったのですか。」とお尋ねした。するとこう説明された。「いやあ、大したことではないんです。はじめは新しい教会員が一人増えたのかなあ、と思っていたらその人は熱心にメモを取っておられる。次の日、警察から呼び出され、私が説教の中で『人間の生命は神から授かったもの、戦争で生命を落としてはいけない』といったのがいけないというんです。その日は召集令状がきて、戦争に赴かなくてはいけない青年がおられたので、当然のことを言ったまでです。それが非国民だというんです。私は論駁しましたが、「今後は発言にあたって厳重に注意せよ」とのことでした。ところが、警官はその後もしばしば教会の礼拝に姿を現し、私はしばしば呼び出しを受けることになりました。そして私にも召集令状が来て一兵卒として刈りだされました。」

これは戦前・戦中のキリスト者にとっては受難史の一環であった。戦争は言論・思想の自由を圧殺し、天皇のためには「義勇公ニ奉ゼヨ」との国家意志に忠実に、死をもかえりみない、という行動が求められたのだった。だから山本先生の説教はやはり非国民的な死生観だったのだ。
牧師としての山本先生にとって敗戦は「開放」であり、冬の時代の終わりであった。その時、山本先生は37歳の若さ、戦時下の抑圧された厳しい情況の中でも「福音の真理」を述べ伝えられた先生から、平和と真実を求める烈々たる気迫を込めた証言が展開されたのは必然的なことだったと思う。ロゴス教会に集まった若い人々が耳をかたむけたことも当然だったにちがいない。 

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