戦中から戦後へ(4)

ハルビンから帰ったキリスト者

中 野 光

ハルビンは現在の中国東北部(戦前は満州)の主要都市である。二十世紀のはじめ、いわゆる白系露人の移住によってできた国際的都市でもあった。

 福富啓泰(1903-1986)はそこで敗戦の日(1945年8月15日)をむかえた。その前年まで勤めていた関東学院(ミッション・スク−ル)は時局の要請に基づき宗教学の講座を廃止した。そのために職を失い、家族を残してハルビン医科大学の教師として単身で赴任していた。

敗戦の日に先立つ一週間前、89日、ソ連軍は怒涛のように満州に侵攻してきた。日本軍は本格的な戦闘の前に敗退、815日には武器を捨て、日本の民間人を置き去りにして解体敗走してしまった。置き去りにされた日本人が遭遇した悲劇的事態は語りつくせない。いわゆる残留孤児もそのような状況の中で生まれた。「残留」とは決して自主的ではなく、「棄民」に他ならなかった。

 福富は幸いにも大学の近くにあったポ−ランド人の経営管理するアパ−トの一室にかくれ、ロシア軍の「男狩り」(強制労働をさせるために日本人を捕らえた)からまぬがれてハルビンに逼塞せざるを得なかった。敗戦から厳冬の時期をはさんで翌1946年の春に至る間の生活は福富にとって筆舌に尽くせない苦難・不安があったはずである。もともと口数の少ないこの人は、帰国後も自らの体験を家族に語る機会は少なかったようだ。ただ、貴重なことはかろうじて持ち帰った小さな手帳に日記代わりに短歌を書き記していたことだった。そのうちの10首をここに紹介させていただきたい。

  メラメラと講義ノ−トの燃ゆるかな 我が半生を葬る如く(816日・敗戦の翌日)

  鉄兜・迫撃砲など校庭に 残して去りぬ停戦の後    (820日)

  昨日まで我らが兵士通りし街に ソ連兵士の行進続く  (97日)

  おずおずと戸外出しに肌寒み いつしか秋は深まりにけり(107日)

  或街をユリ子と啓爾を伴いて 歩きおりしに夢にてありき(123日)

  剣もて立たば剣もて滅びんと 昔イエスは教えしものを (1228日)

福富啓泰が短歌を作ったのは後にも先にもこの時だけだったが、今にして思うとこのうちの数首は「昭和万葉集」に盛り込まれてもよかったとさえ思う。

福富は自らを含めて日本が選んだ歴史の道程を「愚か」であったと自覚した。日がたつにしたがってこの感を深くする。しかし、同時に異国の地で人間としての再生への意志を次第に強めていった。「剣もて立たば剣もて滅びんと昔イエスは教えしものを」と詠んだのは、彼の意思がキリスト・イエスに支えられていたことの証しであった。ポ−ランド人のアパ−トの窓から見ることのできた東方教会の尖塔にそびえる十字架が彼の厳しい生活にとっての無言の支えとなったことも想像に難くない。「敗戦は正しき神の裁きにて 慈愛の鞭を我は恨まじ」の一首も、厳冬のハルビンの凍土に立った彼のひそかな決断であったにちがいない。

昭和21年の秋、いくつもの僥倖に助けられて、彼は茨城県の阿字ヶ浦に疎開していた家族のもとにたどりつく。

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帰国後の彼の戦後史は茨城大学文理学部で倫理学を担当し、キリスト教研究を再開、学生の有志とともにYMCAを立ち上げ、退職するまでその活動に力を注いだ。

家族とともに水戸市砂久保町の水戸教会(鈴木浜・本阿弥政一牧師)員となり、若き日から身につけていたオルガン演奏による奉仕をした。そして晩年は娘夫婦の住む八王子に転居した。新聞紙上で自宅から徒歩約30分のところにロゴス教会が建設されることを知って、早速、妻とともにそこを訪ね、青山学院時代の学生だった山本三和人牧師と感激の再会を果たした。

山本牧師の計らいで毎月1回、証言台に立つ機会が与えられ、19861214日早朝「イエスにとっての父」と題する最後の証言メモ(前夜書いた)を枕元において死去した。

妻、保子は啓泰への追悼歌集「神ともにゐまして」(私家版)でこう詠んだ。

イエス様抱かせ給えその胸に 信仰つらぬきし老いし僕を

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追記 福富啓泰は私の岳父である。口数の少なかった彼は家庭でキリスト教についてそれほど多くを語らなかった。ハルビンでの生活も家族にも断片的にしか話さなかったようだ。ただ私には、1972年日中国交回復のとき「ハルビンにはバルトやブルトマン等の原書を含めて大切な文献を他の持物と一緒に『鮑維泰さん』という事務職員の方に預けた。その人は誠実な人で、『中国と日本が仲良くなったらこれを取りに来てください。待っています。』といってくれたが――」と語ったことが忘れられなかった。そこで妻と私は啓泰の死去後ハルビンへの旅を企て、鮑氏を探した。残念ながら氏は亡くなられていたが、その御子息鮑崇鋭氏とは今も文通が続いている。

  幽囚の身に恐るべき峻烈の 冬ついに来る試練なるかな (1946117日)

  あかねさす東の空に尖塔の 十字架しるき朝ぼらけかな (126日)

  北風よ海山越えてわが家へ つもりし言の葉吹きて告げかし(37日)

  敗戦は正しき神の裁きにて 慈愛の鞭を我は恨まじ   (38日)

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