読書紹介

ワンダフル ディファレンス

 WONDERFUl DIFFERENCE

日本の素晴らしさを知らない日本人へ

ジョージ・ギッシュ(2004、学習研究社)

中野ユリ

 924日の証言はギッシュ先生でした。そのお話の中で、ご著書に触れた部分がありましたので礼拝後に「ぜひ読みたいのですが」と署名、発行元をうかがおうと思いました。しかし、「いまは絶版なので持ち合わせの本でよければ」とおっしゃってくださり、分けていただくことにしました。

 それが、『ワンダフル ディファレンス』というこの本です。

T、WONDERFUL WONDER

 まず、読み始めて感じたことは三つの驚きでした。

第一は、言葉のなめらかなことです。日本人以上に柔らかくやさしい言葉と文体で、これにはまったく驚いてしまいました。

第二に、先生は18歳(1954年)の時に、良心的兵役拒否をされたということでした。以前ドイツで兵役拒否をされた方に出会って心動かされたことがありましたが、国の動向に抗するということには大変な勇気と覚悟がいるに違いありません。あの優しそうな先生が、と驚いたのです。メソジスト派の牧師の子息でいらした先生は2年間の兵役義務の代わりに、2年間の奉仕活動を選ばれたのでした。ぜひ平和に役立つ仕事をと願い、メソジスト派のボランティア牧師として、偶然にも日本(名古屋学院中学校高等学校)に来られたということでした。

第3に驚いたことは、先生が日本の伝統音楽である琵琶を極められ、演奏と同時に、戦後衰退した琵琶音楽の復興に尽力されたということです。

 「琵琶を演奏する変わったアメリカ人がいる!」という程度のことは知っておりましたが、それが先生だったとは……?! まったくの先入観なしに読み始めた私は本当に驚いてしまいました。

  名古屋で日本の生活文化に戸惑われながら過ごされておられるうちに,日本文化への関心、生来の音楽的才能と民族音楽への興味(ご郷里のテキサス大学では歴史学と声楽・ピアノを専攻され、子ども時代にはピアニストになることを期待されておられた由、高校時代にはコダーイやハンガリー民族音楽に関心を持たれた、ということなどが先生の中に伏流水のようにあったのかと思いますが)から日本の民俗音楽の一つである琵琶をとりあげられたのだと思います。

  本格的に研究されるため1962年に一時帰国され、シカゴ大学の民俗音楽研究者マルム教授のもとで勉強されました。「なぜ明治時代に琵琶が大流行し、(第二次大)戦後急速に廃れてしまったのか」という修士論文を提出されて、さらに日本語の勉強のため1968年に再来日(東京)されました。この時初めて「琵琶」を手に入れ、師を見つけ、辞書を片手に古語を学ばれ、日本人が認めざるを得ないすぐれた薩摩琵琶の演奏者となられたのでした。特に日本から消滅しそうになっていた平家琵琶を再興されたのは先生でした。これが驚かないわけにはいきません!

  琵琶といえば「平家物語」です。私は近所の婦人方と平家物語を通読しましたが、読了するのに約11年かかりました。上原まりさんの平家琵琶を一度聞きたいと思いつつ果たせませんでしたが、ここロゴスで先生にお会いできたとは……。

U、WONDERFUL DIFFERENCE

  先生のご本は,名古屋での幼稚園児との会話で始まります。街の様子を描いていた男の子は覗き込んだ先生に尋ねます。

  「『ねえ、アメリカではバナナはなんていうの?』(略)『バナナは、バナナだよ』(略)、

『じゃああれは?』男の子は、今度は別の果物を指さした。オレンジである。これまた私は

『オレンジだよ』と答えるしかない。

男の子は再び驚いたようだった。

『じやあ、あれは?』

今度は道路を走るバスを指さした。

『バスだよ』

またまた驚いた男の子は、次にトラックを指さした。

『あれはトラック』

なんとも不思議な偶然だったが、その時に彼が指さしたものは、もともと西欧から伝来し、呼び方もそのまま日本語化した言葉ばかりだった。少年もびっくりしただろうが、私自身も、こんなにたくさんの英語が、日本人の生活の中に、日本語として浸透していることに気づいて驚いたものである。そして男の子は最後にこうつぶやいた。

『なーんだ、アメリカの言葉はもともとは日本語だったんだ。』」

この笑い話から始められた先生の日本でのご生活は、その後40年近く続きます。理解不能な固有の日本文化であるかもしれないと思っておられた先生は、この少年との対話いらい、「文化の違いとは」「ただ単に右と左が逆になっているくらいの違い、ととらえるべきではないかとも思うように」なられたということでした。

こうして名古屋での、日本がまだ貧しかったころの日常生活、つまり生活文化が次々に紹介されます。火鉢・炬燵のこと、湯たんぽ・手ぬぐい・ステテコのこと等、中には日本人が古いこととして捨ててしまったことにも良さを見つけ、暖かい光を投げかけておられます。日本には、こんなに素敵な生活文化があるんですね……と。

「朝は目が覚めると、まずは蒲団をたたんで押し入れにしまわなければならない。そんなとき私は、自分の寝ていた布団の下の畳がほんわかと温かみを帯びていることに気がついた。

そこで、そのぬくもりの上に直接座り、前の晩、寝る前に灰をかけて消しておいた火鉢を持ち出し、炭を掘り起こし、さらに新しい炭を足してぽかぽかと朝のぬくもりを楽しんだものである。

そんな光景を、誰かに障子の穴からのぞかれでもしたら、さぞかし私は不思議な外国人と思われたに違いない。しかし私にとっては、そんなささいなこともすべて新鮮な喜びであった。

部屋が南向きと北向きとでは、こんなに日あたりが違うものなのか。火鉢の炭は、灰をかけておけばまた翌日も使えてなんとも便利なものだ。蒲団をたたんだ後のぬくもりも、これはこれで味がある。

(略)こんな具合に心地よく目覚め、(名古屋学院の)寮の管理人である長谷川さん老夫妻と一緒に、温かい御飯と味噌汁の朝食をいただいている時が、私にとっては一番の幸福の瞬間だった。そうして私は、生卵をご飯にかけたり、しらす干しをご飯に混ぜて食べるという純和風の朝食の楽しみを覚えたりもした。」

おもわず、私の足の裏にも冷たい朝の畳のぬくもりが懐かしくよみがえってきました。

さらに、先生は日本的事物や道具のほかに、日本婦人陽子さんと結婚されることになって当面された、日本の結婚制度(たとえば仲人・結納・披露宴・引き出物・費用等)、また3人のお嬢さん方の育児・教育にかかわる問題、など具体的事例を通して、それらの持つ意味を考え、その良さを見つけ出して、さらに育んでいくことの大切さを説いておられました。

先生は東京に住まわれてからアバコ・センターでの活動を経て、日本キリスト教団の広報活動をなさりながら、1988年から2003年まで15年間、青山学院大学で日本文化史を教えられました。日本人の先生が「日本文化史」を教えるのではなく、ギッシュ先生が担当なさったのです!

「日本の文化が外国からどのような影響を受けて成立したか、そして今、それがどう変わってきたか。それらを琵琶という音楽の歩みを通じて立体的に」教えられたということです。

先生は手作りの教材・カリキュラムで、もっぱら学生たちが自分の足で調査し、疑問を持ち、自分の頭で考えたことを大事にされました。「試験をしない先生らしい!」と授業を選んだ学生達はかえって大変だったことでしょう。授業の中で、先生は琵琶音楽だけではなく、ご自身の経験、それも日常的な事物をとおしてわかりやすく面白く話されたようで、こうした授業だったら私も受けたかった、と思いました。

そして最後に、学生たちには「日本的文化」とは何か、「日本人とは」という問題を考えさせます。そこでは、「外国文化」や「外国人」との比較ではなく、「一人の人間」としての自分と「他の一人の人間」とのかかわりや、ありようを考えさせておられるように思いました。

私は外国旅行をした時など、日本には日本独特の文化があることを感じました。伝統音楽・美術・芸能などには特にそう思います。まして外国人がその中に身を置くことは大変難しいことと思っていました。しかし、先生のようにこうして人種を越えて、素直に「人間」の目線で異文化を眺めてみると、共感を覚える素晴らしい側面が見えてくるものなのだということがわかってきます。私たちの暮す地域で、それぞれ違った個性をもった人たちが仲良く暮らしているように、異文化間でも異物どうしではなくてワンダフル・デイファレンスになって私たちに広い視野を与えてくれることになります。

「なーんだ、アメリカの言葉はもともとは日本語だったんだ」という坊やの笑い話も「琵琶音楽は日本独特のもので外国人が極めるなんて!」という私の感慨も、軽率な結論だった、と訂正しなければなりません。WONDERではなくてWONDERFUL DIFFERENCEでした。

たしかに、琵琶は中近東に生まれて西へも東へも広がって日本までたどりついたものですし、日本の仏像など、中国や韓国に行ってみますと「ああここに日本文化の原型がある」と実感させられます。そして、たどり着いた島国で長い時間をかけて醸成され、うつくしい日本的芸術品として完成したのだ、と日本人としての誇りを感じることもしばしばでした。思想的な面も宗教的な面もそれは言えることでしょう。

いま、地球は地域・国境を越えて瞬時に情報が伝わっていくグローバルな時代となりました。地域性の影は薄くなっていくように思います。私のような年寄りにはついていきにくいような、一種のIT文化革命がおこっているような気がします。まったく新しい文化です。ここから何が生まれ、育まれていくのか、怖いようなまた楽しみなような……。

京都東本願寺の渉成園という庭園に、もう何年か前に行ったことがあります。門をはいると古い建物・枳穀邸を守るように石壁が築かれていました。それは小さい石、大きい石、黒色の、茶色の、白いのなど様々な石くれで造られていました。その説明文には、たしか金子みすずの詩の一節を引用して「みんな違って、みんないい」と書いてありました。

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