子どもに語りたい

「青い目の人形」物語(5)

中野 光

  

5.おわりに

私が「青い眼の人形」のことを知ったのは、戦後も4半世紀たった1970年代のはじめ、故小林かねよ先生(19021982)にお目にかかったときでした。先生は大正時代の「自由教育」といわれる新しい学校改革を求めて、当時の日本の教育界に新風を創り出す運動に参加された、数少ない女教師のひとりでした。1924年に創設された「池袋児童の村」という小学校の教師として、また同校が1936年に閉校になってからは、私立和光学園の教師として活躍されました。戦後は大阪の桃山学園大学で教師をつとめておられました。私が大阪駅ではじめてお会いしたとき、先生はすでに70歳を超えておられたはずでしたのに、精神において若々しく、美しい方でした。私は先生に児童の村や和光学園の歴史について具体的に伺うことができました。そのとき、先生は当時の思い出が書かれたやや分厚く白いノートと数枚の写真を持ってきてくださいました。その中に「192733日ひな祭りの日に、青い眼の人形・ダマリンちゃんとともに」と記された写真がありました。先生はその人形が届いたときのことを、なつかしげに語ってくださいました。そしてその人形は、いま神戸にお住まいの「大西まことさん」が持っておられるはず、ともおっしゃっていました。大西さんというのは児童の村小学校の校長だった野口援太郎という教育者の娘さんなのでした。

それから30年ほどたった2003年の秋ごろだったでしょうか。私は宮城県の雫石とも子さんという方から電話をいただきました。「みやぎ『青い眼の人形』を調査する会」の事務局長をされている、とのこと、私へのおたずねは次のようなことでした。

「中野先生が1983年に編集・出版のお手伝いをされた小林かねよ先生の遺稿集『児童の村小学校の思い出』(あゆみ出版)の中に書かれている『青い眼の人形』・ダマリンちゃんは、現在神戸大学に保管されている人形と同一のものでしょうか?」というおたずねでした。私はそのいきさつを知っていましたので『同一のものに間違いありません』と答えました。つづいて、雫石さんは小林かねよ著『児童の村小学校の思い出』という本の全文コピーをとりたいとの希望を話されましたので、私の手許にあったものを郵送させていただいたのでした。  私は子どものときから『情けは他人(ひと)のためならず』ということを教えられてきましたし、私の過去におけるささやかな仕事が雫石さん達のお役に立つことを嬉しく思っておりました。ところがその後、思いがけないことに雫石さんは「みやぎ『青い目の人形』についての調査活動とその成果をくわしく教えてくださいました。

 それは私にとって文字どおり「世にも不思議な物語」であり、20世紀から21世紀にかけての日本とアメリカを、友情と平和への願いでむすんだ、意義ふかい歴史物語であることがわかってきました。私は戦前に、軍国主義に傾いていった学校教育を受け、戦後は40年以上も教師生活をしてきただけに、このような歴史をいまの子どもたちとも共有したいものだ、と思いました。雫石さんがせっせと私に研究のせいかをいろいろなしりょうとともにしらせてくださったおかげでした。最近では斉藤俊子作『心をつなぐ友情人形ものがたり』という絵本や、宮城県で作られた紙芝居、横浜や埼玉で作られた記録・アニメ等のヴィデオを贈ってくださいました。

 「みやぎ『青い眼の人形』を調査する会」の皆さんや、全国的にこの問題に関心を寄せてこられた方々に敬意と謝意をお伝えしたいと思います。

 それにしても、1920年代の後半から80年を越えて今にいたるこの一すじの歴史物語を、現在の私たちはどう考えたらよいのでしょうか。日米両国の歴史に、このような事実があったことを知った人たちは、あの時代にS.L.ギューリックのような人がいたこと、彼の呼びかけに答えて、協力した人たちがたくさんあったことに驚き、感銘を深くしたことでしょう。また日本にも渋沢栄一をはじめとしてギューリックの提案をうけとめ、アメリカへの答礼人形を送り届けた友好の歴史を作ったことにも敬意と誇りを感じたことと思います。

2次世界大戦が終わって、おおくの国々がつくったユネスコという国際的組織がありますが、その憲章の前文に「戦争は人の心のなかで生まれるものであるから、人の心のなかに平和のとりでを築かなければならない。」という宣言が書かれています。

ギューリックや渋沢栄一をつないだものはそのような精神でした。

それにしても戦争は人の心を狂わせるものです。1927年から16年たった1943年に、アメリカから友情と親善の心をこめて贈られた人形を、焼いたりこわしたりしたこと

が、どうして日本で起こったのでしょうか。それは当時の日本の警察や軍隊の命令によって起こったことに違いありません。でも、私も子どもだったあの時代のことを思うと、「先生、人形を焼くなんて止めてください!」とはいえなかったと思います。  私は小学生のときから、木や竹の棒を銃のかわりにして人を殺す練習をさせられました。中学生になってからは藁人形を本物の刀で斬る練習までさせられたのでした。先生から「アメリカ兵だと思って斬れ!」といわれ、藁人形を斬ったこともありました。そういう状況下で「アメリカのセルロイド人形」を焼くことに、当時の私も疑問すら感じなかったろうと思います。戦争はそのように「人間の心」を失わせてしまったのです。

ですから、1945年に戦争が終わったということは、日本人が「悪い夢」からさめて、人間にもどったということにもなりました。1946113日に成立した「日本国憲法」とその翌年に成立した「教育基本法」は日本人に「正気」を取り戻させたものといえましょう。そして21世紀に入って、ここに書いたように「青い眼の人形」の精神がよみがえり、日本の人々とアメリカの国民一人一人とのあいだに平和と友好の絆がつよめられたことになります。そのようなことが積み重ねられてこそ、これからの国と国との平和がより確かなものになっていくことでしょう。

(写真は「みやぎ青い目の人形」を調査する会編「お帰りなさい『ミス宮城』2003年里帰りの記録」より転載)

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