ロゴス教会創立100周年記念礼拝

若返って鷲のように

1989.11

山本三和人

★時を移さず行動へ

100年の歩みをお祝いするに当たって、私は当教会の主任牧師として、いま私の内にある思いの一端を述べさせていただきます。

 いま、私たちは月に一度バルト教授の本をテキストに読書会をいたしておりますが、これまで私たちはただ一回的な出来事としての”神の啓示”について学びました。聖書が伝える出来事としての啓示の記録を、バルト教授は、前線部隊からの緊急報告にたとえておられます。敵(神)が味方(人間)の陣営に対して決定的な攻撃を開始した。攻撃を受けた前線部隊(預言者と使徒)は、ただちにその攻撃のすさまじさを記して、これを後方部隊に届けた。これが「聖書」である、というのです。

 私たちは、歴史批評の方法とか、文学批評の方法とか、様式批評の方法とか、いろいろな方法で聖書の真理に迫ります。しかし、聖書は単なる歴史書でもなければ文学書でもない、それは前線部隊から届けられた生々しい戦況報告である。従ってこのリポートに接した者のなすべきことは、報告の歴史性や文学性や文体の様式などの論議にふけることではなく、ただちに応答することである。時を移さずに行動を起こすことである。

 敵の攻撃に備えるとともに、その報告をさらに後方に控えている部隊に伝えるために走り出すのが、報告に接した者のつとめです。報告に対する応答は、ただ行動あるのみです。このようなことを読書会で学びました。

★私たちの戦場は未来である

 私はこれと同じようなことを、スポーツにたとえて申し上げてみたいと思います。

私たちの教会が、宣教100年を記念する慶びを分かち合う時を迎えたということは、バトン(報告)を握り締めて懸命に走った前走者がたくさんいたということです。それぞれのランナーは、それぞれのいちばん速い走りを走って次走者にバトンを渡したはずです。そして、そのバトンはいま私たちの手の中にあります。このバトンをどうしたらよいでしょう。

 バトンを受け取った私たちのつとめは、一刻も早くこのバトンを後方に待つ次走者に届けることです。そうするために、いますぐ走り出すことです。うしろを振り返ることは許されません。よく私たち日本人は、人と別れる時、何度もなんども振り返ってお辞儀をしますが、あのようにうしろを振り返りながら走ったのでは、第一まっすぐ走れません。第二に速く走れません。過去は大切でありますが、過去が大切であればあるほど、過去から遠ざからなければなりません。私たちの戦場は未来です。いま私が考えていることは、このことです。

★ガリラヤへ行け

 いまは100年の思い出にふけっている時ではありません。むかし「シェーン」という映画が放映されましたが、最後のシーンで小さい男の子が、去って行くシェーンの後姿に向かって「カムバック シェーン」と叫びます。
あの場面を見て涙を流した日本人は少なくなかったと思います。

 しかし私たちに、重要な報告のバトンを手渡した私たちに先輩たちは、バトンを握り締めて走り出したばかりの私たちに、私たちの新しい旅立ちを思いとどまるように呼びかけたりはなさいません。報告の重要さを知っておられる方々だからです。
 この方々がいま私たちに贈っていることばは、「一刻も早く行きなさい」ということであり、「少しでも遠くへはしりなさい」ということです。

 復活なさったキリストも、弟子たちに向かって「ここに来い」とは言わないで、「ガリラヤへ行け」と言われました。前に申しましたように、ガリラヤは聖地の外れです。異郷と境を接し、異郷の冷たい風が吹き込んでくるところです。すなわち、キリストはあたかもピッチャーがボールを投げるように、使徒たちを聖地の外れに投げ遣わされたのです。使徒とは「・・・から投げられた者」という意味の言葉です。この主のみことばへの応答は、一刻も早く遣わされるところに向かって出発することです。

★走れ、地の果てまで

 しかし、ご存知のように使徒たちもただちに立ち上がって走り出しはしませんでした。迫害を恐れたからです。この新しい旅を立ちをためらう使徒たちに、復活のキリストは言われます。「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、私の証人となるであろう」

そして、このキリストの約束が成就したのがペンテコステの日です。狭い隠れ家の戸を開け放ち、外に飛び出しで行って、「イスラエルの人々よ、いま私の語ることを聞きなさい」と言って、宣教の行動を開始したのです。
もう止まりません。だれも彼らの走りを止めることはできません。そして彼らから次々と手渡された福音のバトンは、私たちの手もとにあります。振り返って感傷にひたる余裕はありません。走るのです。地の果てに着くまで走り続けるのです。

★新しい旅立ち

 詩編103編5節に「あなたは若返って鷲のように新しくなる」とあります。若返り、新しくなるには、鷲のようにならなければならない。どうしてでしょう。黙示録4章6節以下を見ますと、御座の近くにいる四つの生き物のことが記されています。その中の第四の生き物として出てくるのが鷲です。次のようにあります。「第四の生き物は飛ぶ鷲のようであった。それぞれの生き物には六つの翼があり、その翼の周りも内側にも目で満ちていた」

 若返り、新しくなるために必要なことは、自由に飛びまわる翼と、遠くを見る目持つということです。老いは目と足からはじまると申します。預言者ヨエルは「あなたがたの老人は夢を見、あなたがたの若者は幻を見る」と言って、老人と若者の違いが年齢や経験の違いでなく、夢と幻の違いであることを教えてくれました。しかし、夢を見るにしても幻を見るにしても、見る役割を果たすのが目です。この目の使い方が問題です。

 目を閉じて遠い過去の思い出を見るのが老人です。かっと目を開いて、遠い未来にかかげたヴィジョン(理想)を見るのが青年です。その目の使い方によって、私たちは老人のもなり、若人にもなります。
 また、人間は足で歩きまわりますから、足の力が衰えると行動半径が短くなります。もし人間に羽があったら、もっと自由に行動半径をのばすことができるのでしょう。私たち人間には、目には見えませんが翼をもっています。この翼の使いかたが問題です。老人と若者との違いは、この翼の使い方の違いです。翼をたたんで新しい旅立ちをためらうのが老人であり、翼を広げ、新しい旅立ちに挑むのが若者です。

★福音のバトンを持って

 ヴィジョンに向かってヴェンチャーしないものは青年ではありません。老いても、未来にヴィジョンをかかげ、そのヴィジョンの実現に向かってヴェンチャーするなら、その人は青年です。
 幸い私たちの教会は、このような意味での青年たちに恵まれています。前走者から受け継いだ福音のバトンを握り締めて、つぎの101年に向かって早くも駆け出しています。「若返って、鷲のように新しい」未来の空への羽ばたきです。

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