敗戦

紫垣喜紀

□真珠湾攻撃の一年後、アリゾナ州ロス・アラモスに秘密工場の建設が始まった。建設資金は25億ドル(現在の貨幣価値で数兆円)。10万人以上の人員が動員された。“マンハッタン計画”と呼ばれた原爆開発の施設である。1945716日。爆発の閃光が夜明け前の砂漠を目も眩む光で照らし出した。実験に立ち会ったオッペンハイマーは「私は死に神になった。世界の破壊者だ」と溜息を漏らしたという。実験から10日もたたないある日、極東の米空軍に命令が出された。「天候の許す限り可及的速やかに広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに第一特殊爆弾を投下せよ」。晴天が仇になって広島と長崎に悪魔の火炎が炸裂した。こんな川柳がある。「八月や、六日、九日、十五日」。「六日(広島)+九日(長崎)=十五日(終戦)」。これが太平洋戦争終結の方程式である。

□父は海軍の軍楽隊員だった。しかし、開戦時には倉敷市郊外の水島航空機製作所に勤め、女子挺身隊の指導に当たっていた。戦況が不利になるにつれて、岡山上空にもB29の大編隊が襲来するようになった。灯火管制の下、私たちは防空頭巾に身を固めて河原に避難していた。漆黒の闇の中、工場のある辺りが真っ赤に染まっていくのが遠望された。軍需施設は壊滅した。四歳の時の記憶である。稲刈りの終わった田んぼでグラマンの機銃掃射を受けた体験もある。遊んでいた子ども56人が標的にされた。余熱の残った薬莢を持ち帰ったのを思い出す。その頃には艦載機まで飛来するようになっていたのだ。私たちは岡山を離れ父の故郷、熊本に疎開した。第二関門トンネルが開通した三日目に、海底を列車で通過した。1944年(昭和19年)911日のはずである。

1945年(昭和20年)815日。私は終戦を熊本で迎えた。五歳と七ヶ月になっていたが、その日の光景を思い出せない。「玉音放送」を聴く儀式にも加わっていない。いささかの記憶もないのが自分でも不思議である。私が敗戦を強く意識したのは“米軍の駐留”であった。830日、マッカーサーが厚木に飛来する。武装解除前の敵地にパイプを片手に丸腰で降り立った。この自己顕示欲の権化に続いて20万の米兵が各地に上陸した。当時、私の家族4人は伯父の家の二階に寄留していた。その家は「往還」と呼ばれる大通りに面している。雑貨商、八百屋、魚屋、風呂屋など、木造二階建ての建物が軒を連ねていた。その往還を米軍部隊が行進してくるのだ。その日、どこの家も厳重に戸締まりをした。息を殺して待った。女たちは遠くの知人の家に避難していた。

□年寄りも、男たちも、子どもたちも、雨戸の隙間や節穴から往還を窺った。恐いもの見たさである。機関銃で武装したジープの車列が先駆けだった。大男の兵隊が引き金に指をかけて四方を睥睨する。赤鬼や青鬼のように見えた。顔料を顔に塗って迷彩を施していた。次は戦車部隊だ。巨大な鋼鉄の塊が砂利を踏み潰しながら轟音をあげる。戦慄を覚えるほどの迫力。声もなく圧倒された。完全武装の兵隊を満載した軍用トラックが、何台も何台もゆっくりと走りすぎてゆく。兵隊たちはさすがに緊張した面持ちに見えた。熊本といえば、精強を謳われた陸軍第六師団の師団本部が置かれていた軍都である。米軍もその粗野な風土を警戒していたに違いない。しかし、静かなものだった。一発の銃声も響かなかった。拍子抜けするほど静かな開城だった。

□熊本市の人口は現在66万人。その水道はすべて地下水で賄われている。阿蘇のカルデラに降った雨は地中を伏流して熊本平野に湧出する。その最大の水源が郊外の“八景水谷(はけのみや)”にある。進駐軍はそこにキャンプを張った。その日を境にして街の風景は一変した。ジープが砂塵をあげて走り回るようになった。酔っ払った米兵が奇声をあげる。血色の良い米兵が女を腰に乗せて街を歩く。占領の街の風景である。新聞は米兵の犯罪報道に厳しい規制を受けていた。「米兵」のことを「大男」と表現した。「占領軍」は禁句だった。小学生の頃、痛快な噂が広がった。柔道家の木村政彦が、米兵12人を大甲橋から白川に投げ飛ばしたというのである。木村はのちに力道山に挑んだ格闘家。僕たちは、熊本男児の武者ぶりを想い描いて溜飲を下げた。真偽のほどはわからない。

□わが家の生活にも変化が出た。父が古いクラリネットとサキサフォンを手に入れてきた。暇さえあれば、ピーピー、ブーブー、音を外しながら吹いている。竹を割って器用にリードも作っている。間もなく仲間と「フレッシュマン」というジャズバンドを結成した。父はかつて海軍軍楽隊のホルン奏者だった。「軍艦マーチ」や「君が代」を吹いていた人だ。それがあっという間に敵性音楽に鞍替えした。「スター・ダスト」やら「A列車で行こう」やらをスイングしている。華麗なる転身というのだろうか。

八景水谷の米軍キャンプや米兵の集まるクラブに出向いて演奏した。その稼ぎでわが家は糊口をしのいだのだ。時々は、キャンプからサンドウイッチやチョコレートを持ち帰った。味わったこともない異国の味覚に舌を巻いた。米国の豊かさに驚いた。

□兎にも角にも、敗戦直後は一億総変身の時代だった。極めつけはこの人である。村上春樹の小説「海辺のカフカ」の表現を拝借しよう。

戦争の前には神様だった天皇は、占領軍司令官ダグラス・マッカーサー将軍から「もう神様でいるのはよしなさい」という指示を受けて、「はい、もう私は普通の人間です」って言って、1946年以後は神様ではなくなってしまった。日本の神様ってのは融通無碍なものなんだ。安物のパイプをくわえてサングラスをかけたアメリカの軍人にちょいと指示されただけでありかたが変わっちゃう。

「現人神」を否定して「人間宣言」。昭和天皇は背広に着替えて全国巡幸を始められた。「陛下、あれが阿蘇です」「あ、そう!」。憎めない人柄。日本を滅亡に導いた首謀者とはとても思えない。GHQも統治上の思惑から天皇制を温存した。

□私は進駐軍がいつ撤退したのか気づかなかった。かわって米国文化がどっと進駐してきた。中でもハリウッド映画は「豊かな社会」を鮮烈に印象づけた。戦時中にも、敵側の国力を正確に測ろうとした人がいないわけではなかった。いや、沢山いたと言っても良い。逓信省の工務局長、松前重義は1943年(昭和18年)初め、“日米生産力調査書”をまとめた。「日米生産力の比は、彼の10以上に対して、我は1以下である。いくら必勝の念仏を唱えても戦争の将来は惨たる滅亡が待っている」。この報告書は東条首相の逆鱗に触れ、松前は42歳の二等兵として南方の激戦地に送られた。“懲罰召集”というのだそうだ。松前はのちの東海大学の創立者である。将軍たちは、自分たちに都合の悪い情報が大嫌いだった。彼らの目に巨人の姿は見えていなかった。

□昭和の初め、軍閥は明治憲法に悪魔的な解釈を加える。天皇に属する“統帥権”が立法・行政・司法の三権を超越すると主張し始めた。1935年(昭和10年)には、美濃部達吉博士の“天皇機関説”が右翼の攻撃を受ける。“天皇機関説”とは「法治国家では元首も法の下にある」という原則。この法治国家の常識が衆議院で否定されてしまった。昭和が滅亡への急坂を転がってゆく。“現人神”の名の下に、軍閥が統帥権を行使して日本を壟断した。謀略から事変、戦争へと拡大。批判者は“統帥権干犯(かんぱん=干渉)”として弾圧された。ミッドウエー海戦、ガダルカナル戦以後は連戦連敗。前線の将兵には「玉砕」が命じられた。戦況の判断を逡巡しているうちに、原爆を投下されて国を滅ぼした。将軍たちはMPに捕縛された。生きて虜囚の辱めを受けたのである。

□ナチスの戦犯を裁いたのがニュルンベルク裁判。被告たちの態度は傲岸不遜を極めたという。証言は明瞭だった。「自分は、総統の意見さえ却下して万事を最後の段階まで導いた」。徹底して悪の論理を貫いた。しかし、悔い改めの意識は微塵も見られなかったという。

連合国側というより、“神への反逆”だった。東京裁判は対照的である。日本の戦争責任者には共通点があった。一つは自己責任に対する無感覚。もう一つは神妙さである。「国策がいやしくも決定されました以上、それに沿うのが我々に課せられた慣習であります」。一人称単数では語らなかった。日本を亡国に導いた将軍たちにしては、他人事のような発言である。“拾う神”を捜す卑劣さも滲む。「日本人十二歳」。マッカーサーから軽蔑されてぐうの音もでなかった。あの敗戦から63年が経過した。[完]

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