言葉と言(ことば)

紫垣喜紀

□山本俊正牧師が関西学院大学の教授に就任された。礼拝のあとの愛餐会でも、当世学生気質が話題になる。先生の口ぶりからして、現代学生のお行儀もあまり良いとはいえないらしい。中野光元教授は自らの体験に照らして一言の助言をされる。「わかり易い講義をすると、学生たちは深みがないと受け取るんですよ」。そうなんだ。これまで、大学教授というのはなぜ“易しい事柄を難しく説明するのだろう”と不思議に思っていた。難解な講義こそ、背伸びする若者たちの虚栄心をくすぐる方便でもあったのだ。それでは、現代学生の理解力やいかに?「超やばー!」。「あちゃー!」。“言葉”の世代間格差が広がる。

□私の学生時代は、全学連の活動が全盛期だった。大学構内には過激なアジ演説が響いていた。生硬な革命用語やマル経の言葉の羅列だった。革命家気取りの弁士は自らの絶叫に酔っていた。永田町には連日デモが繰り出した。「岸を倒せ」「安保粉砕」と叫びながら怒濤のようにうねった。岸首相は「声なき声を聞く」と強気を貫いた。“言葉は”はかみ合わなかった。私も一度だけ運動靴を履いてデモに参加した。目の前で機動隊の装甲車が火炎に包まれた。興奮のるつぼの中にあった。その日、全学連主流派が国会突入をはかり機動隊と衝突。東大生の樺美智子さんが死亡した。程なく、岸内閣の命運も尽きた。

□「衣食足りて礼節を知る」。生活が豊かになれば、人は名誉や恥を重くみるようになる。この公式が日本社会に当てはまらなくなってきた。民間、官界を問わず、悪事や不祥事が蛆虫のように這いだしてくる。“言葉”は人を騙し欺く道具になった。偽証にも使われる。悪事の多くは内部告発によって暴かれている。下世話に言えば密告である。人間不信の悪循環が続く。日本人の心は悲しいほどに卑しくなってしまった。人々は次第に社会への敬意を失う。士気も失われる。だから、凶悪犯罪が激増する。教育界への影響は深刻だ。子どもたちに人を疑うことを教えなければならない。教育崩壊は即、社会崩壊である。

□戦後の復興期には、貧しくとも人間らしい健康な日常があった。健全な「中産階級」が育っていた。最近それが急に崩れ始めている。いま思えば「構造改革」に起因するようだ。過剰な競争、成果主義市場原理主義。弱肉強食の原理が導入された。弱者の支えは外された。脱落した人は「負け組」と呼ばれる。「人材派遣会社」が幅を利かす。現代の「人買い」と映る。国民の健康を預かる医療現場も例外ではない。医療暗黒時代に入った。構造改革を進めたのは小泉元首相。「自民党をぶっ壊す」と政敵を牽制しながら政権の求心力を保持した。私たちは「日本をぶっ壊す」と言ったのを聞き違えたのだろうか。

□ロゴス教会の創始者、山本三和人牧師は多くの著書を遺されている。その中に「言葉の喪失」という本がある。その一部を要約して紹介したい。“「人」という字の横に「言(ことば)」という字を置けば、「信」という文字になります。言葉が人から離れて「人言(じんげん)不一致」の状態に陥った時、我々は隣り人を信ずることはできません。そこには、人間の不信と不在のみがあり、暴力による解決のみが残されます。今日「集団的言語喪失症」の兆候が随所に見られます」。”さすがは慧眼の士。現代をぴったり言い当てておられる。しかし、日本社会がこれ程までに堕ちるとは予想されていなかったに違いない。

□“言葉”は人間同士が意志を伝え合う手段である。“言(ことば)”は言葉とは区別して使われているように思う。神が自らの意志と真理を表されたものが“言”であろう。ヨハネ福音書の第一章にはこう記されている。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。神は“言”を人間の姿に変えて世に送られたのである。“言”はギリシャ語では“ロゴス(LOGOS)”。子なる神、イエス・キリストを指していることは言うまでもない。ヨハネ福音書の美しいプロローグ(序章)は、「言が肉(人間)となった」“受肉のロゴス”としてイエスを描き出している。

□神の“言”は重い。徒に弄ぶと世界は破局を迎える。人は破滅に導かれる。中世の教会は、民衆から自由を奪って恐怖を煽った。免罪符を売りつけて金庫を潤した。刃向かう者は異端審問や魔女裁判にかけ容赦なく火焙りにした。神の“言”を語りながら、悪魔と結託したのだ。ナチスは、国民の盲従を促すために聖句を用いた。「支配者への従順」や「平和ではなく剣を」がそれである。ヒトラーは人神の座について人を裁いた。ユダヤ民族の抹殺とゲルマン民族による欧州新秩序(神の国)を妄想した。ユダヤ人600万人をガス室に送るのに、良心の呵責を覚えなかった。歴史には無数の悲劇が刻み込まれている。

□「神認識」は「理性認識」ではなくて「聖霊認識」だと言われる。神の“言”は神にしかわからない。人間の物差しで解こうとすれば、神は離れて行かれる。人の憶測と期待による探究は神ならぬ偽りの神に導く。自分の腹に仕えるようになる。だから、神の“言”を知るには“聖霊”の導きを祈り求めなければならない。こう教えられると、私のような信仰の初心者は、はたと当惑する。「どんな状況のもとで、人は聖霊に満たされるのだろうか?」。戸惑ってしまう。人類の上に初めて聖霊が降ったのは、五旬節の日の朝9時。人々は聖霊による洗礼を受けた。霊が語らせるままに異言を話し始めた有名な場面だ。

□そこにはイエスの弟子や婦人たちが集まっていた。かつてイエスを再三裏切ったペテロや復活を疑ったトマスもいた。しかし、彼らは元の彼らではなかった。もはや一点の疑いもなくイエスを信じ、復活を信じていた。『信』という文字を見直してみると、「人」の横に「言」という字が置かれている。神が共におられる。それは、罪、悪霊、悪魔が人から遠ざけられた状態である。神は、閉ざされた心、偏見を持った心、傲り高ぶった心に、“聖霊”を遣わされることはあるまい。“聖霊”とは神意の理解をもたらす助け主である。山本三和人牧師の“言葉”を手本にして信仰を考えてみた。山本節は面白い。

□私たちの教会は楽しい。名前には凄い冠“ロゴス”を戴いている。兄弟姉妹の仲はすこぶる良い。愛の交わりがある。自由と寛容の精神にも溢れている。広い御堂は聖霊に満たされている感じがする。「新しい文化の創造(Challenge for New Culture)」という幻も追っている。ホームページを開設。「発信する教会」を新しい目標にした。ロゴス教会は11月に八王子開堂25周年を迎える。記念文集を発行するため原稿を募っている。内容、形式、分量は問わないというのもロゴス教会らしい。み言に支えられた私たちの物語を綴って,信仰の伝統を語り継ぎたい。失われた言葉の回復を祈りたい。                                                                          

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