宗教音楽の話 6

(「LOGOS No.22」1991.5)

横山正子 オルガニスト

 「宗教音楽にはどんな深刻な作品にも必ず救いがあるし解決が示されている」という言葉で前回は終りました。「宗教音楽」という名称を、私たちは普段なにげなく使っています。多くの場合、無意識に想定しているのは古くはグレゴリオ聖歌からバロックのオラトリオやモテット、時代が下がってハイドン、モーツアルト以降の作曲家のミサ、モテット、レクイエム、オラトリオといったところでしょうか。

 「宗教」といっても、この場合キリスト教をさしていますので、正確には「キリスト教音楽」というべきですが、音楽に限らず「キリスト教芸術」とはじっさいのところどういうものなのでしょう。ある人は「キリストの福音があらわされている芸術」と定義していました。なにげなく口にされる名称の定義としては、無難なものかもしれません。しかしながら、これではわざわざ定義する必要もなさそうです。

 長い歴史と精神文化の変遷を背景にして存在している芸術は、時代とともに表現の方法やかたちを変え、多くのものを反映しつつ存在し続けます。たとえキリスト教に題材を採り、福音を表現した作品でも、本質は必ずしもそれのみを表現しているとは限りません。従って、上記のようなあまりに安易なアプローチでは、とうてい歯が立つはずがないのです。

 たとえばヴェルディの「レクイエム」とマーラーの「巨人」を聴いて、この二つの壮大な音楽の違いは、キリストの福音が説かれているか否かにある、と断言する人はどれだけあるでしょうか。ベートーヴェンの「第九」終楽章のあのシラーによる歌詞は、キリストの福音を説いているのかそうでないのか。しかし、こんなことを論議するほどばかばかしいことはありません。

 湾岸戦争の始まった1月17日の夜、私は家で新しく買ったCDを聴いていました。マックス・レーガー作曲の「オーケストラ伴奏による歌曲集」。歌うのはフィッシャー・ディースカウです。戦争に心をいためたレーガーが戦死者にたむけたものであるらしく、悲惨な現実の中にあって、彼岸からの霊気を受けつつ祈りをささげています。アイヒェンドルフ、ヤコボヴスキー、ヘッベル、ヘルダーリンの詩が切実な重さをもって聴く者の心にしみ入ります。

 しかしここには、キリスト教の神はあらわれず、福音による救いも歌われていません。ヘッベルの詩による歌などは「レクイエム」と題されているのにもかかくわらず・・・。作曲したレーガーはカトリック教徒として知られ、聴く者を祈りに引き込むこれらの曲も、「キリスト教芸術」ではないのです。祈りの音楽ではあっても、これらの詩人の目したものはキリストの福音ではありません。

 こうしてみると、「キリスト教芸術」という名称そのものが、現代に近づくにつれ意味を失っているように思えます。

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