平和を考える

  エフェソの信徒への手紙2:14-17

2010829

今日は、8月最後の聖日でございます。

信徒証言として、再びお話をする機会をいただきましたことを感謝いたします。

もう、一年以上も前になりますが、去年6月にドイツ旅行に行きました。6月を選んだというのには理由があります。日本脱出。うっとうしい梅雨を避けようという魂胆でした。これは当たりした。ドイツは、ちょうど菩提樹(Linden Baum)が花開く季節でした。ハイデルベルグ城の城内にはたくさんの菩提樹の大木が聳えています。
30mほどもある高い木もあります。甘い香りがただよっていました。首都ベルリンの中心部に「ブランデンブルグ門」という凱旋門があります。

そこを基点に東西に延びる大通りの名前を
,Unter Der Linden」と呼びます。「菩提樹の下」という意味で、ここにも菩提樹の見事な並木が続いています。菩提樹といえば、シューベルトの歌曲にも「Der Lindenbaum (菩提樹)」という曲があります。

それから、ゲーテの名作「若きウェルテルの悩み」という小説の中にも、菩提樹があちこちに描写されています。若いウェルテルが美貌の人妻ロッテに恋をしてしまう。遂げられぬ恋であることを知って、苦悩の果てにピストル自殺をする。「青年が人妻に惚れて、死んだ」。これだけの話なんですが、文豪ゲーテの筆にかかって、純情多感な青春の苦悩を描く名作になりました。

ウェルテルは死の直前に遺書を残す。「村の墓地の奥に二本の菩提樹が立っています。ぼくはそこに葬られたいのです」と書いています。

彼は、菩提樹の下を安住の地にしたかった。菩提樹は、ドイツ人にとって、平和、平安のシンボルなのかもしれません。

6月のドイツは、菩提樹の印象が強かったものですから、つい話がそれましたが、今日は菩提樹の話をするわけではありません。“平和”を考えてみたいと思います。

首都ベルリンから南西30キロのところにポツダム(Potsdam)という美しい町があります。東京でいえば、新宿から京王線に乗って府中か聖蹟桜ヶ丘あたりといった距離感でしょうか。

人口は
15万人ほどの古都で、世界遺産になっています。ベルリンからS-Bahnという郊外電車に乗れば25分ぐらいで到着するのですが、私たちが訪ねた時は、途中区間が不通になっていて、バスで連絡していました。ドイツ語の表示しかなく、私たちが戸惑っていますと、子ども連れの若い婦人や中年の夫婦が、親切に道案内をしてくれました。ドイツ人の暖かさ、ドイツ人が日本人に示すさりげない好意というものを強く感じました。

 ついでながら申し上げておきますと、ドイツに滞在した3週間、私たちは、中国人や韓国人に間違えられることが一度もありませんでした。自転車ですれ違う少年達も「今日は」と日本語で声をかけてくれました。野外劇場や乗り物の中でも、いろんな人々が優しい気遣いを見せてくれます。やはり、先の大戦で同じような運命をたどった日本人には特別な親近感を持っているんだなあ、とあらためて思いました。

 ポツダムの見所は、二つの宮殿です。一つは、サンスーシ宮殿(Schloss Sanssouci)。フリードリヒ大王が建てた広くて華麗な宮殿です。それから、もう一つは、発音が大変難しい宮殿。ツェツィーリエンホーフ宮殿(Schloss Cecilienhof)。こちらは、宮殿というよりは、湖畔に建つ英国風の館という趣があります。
 
この宮殿が、現代史の重要な舞台となりました。第二次世界大戦の末期に、ここでポツダム会談が開かれ、日本に無条件降伏を求めた“ポツダム宣言”を発したのです。

この宮殿を訪ねますと、会談が開かれた部屋が当時のまま保存されていて見学できます。日本語版のオーディオ・ガイドを借りて詳しく説明を聞くことが出来ました。

“ポツダム宣言”というのはアメリカ、イギリス、中華民国の三ヵ国の共同宣言として発表されています。ところが、会議の途中ハプニングが起こりました。イギリスのチャーチルが総選挙敗北の連絡を受けて退席。新首相のアトリーはまだ到着していない。中華民国の蒋介石は、日本軍との戦いや毛沢東の解放軍との争いに縛られて、そもそも会談には参加していない。そこで、アメリカのトルーマン大統領がイギリス、中華民国の代表に代わって共同宣言に代理署名をしたという逸話が残っています。

 このポツダム宣言は、726日に発表されました。日本政府は、閣内での激しい議論の末、黙殺することを決定したことはご承知の通りでございます。

日本政府の決定がどのような形で欧米に伝わったかはわかりません。多分、時事・共同電が中立国を経由して欧米に伝えられたものと思われます。

Ignore it perfectly」「ポツダム宣言を黙殺」と伝えられました。

日本政府のこの決定は、敗戦のダメージを悲劇的に増幅することになります。

アメリカ極東空軍に極秘の命令が出されました。それは「広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに第一特殊爆弾を投下せよ」という命令でした。

特殊爆弾とは勿論、原子爆弾のことです。晴天が仇になって、広島と長崎が原爆の犠牲になりました。更に、長崎の原爆投下の日、ソ連が“日ソ中立条約”を一方的に破棄して、満州への侵攻を開始いたしました。

 衝撃を受けた日本政府は、814日の御前会議でポツダム宣言の受諾を決定。

815日の正午、天皇の玉音放送という形で戦争終結を国民に発表したのです。

 歴史に「たら」「れば」は無いといわれます。「たら」とは「あの時、ああしていたら」。「れば」とは「ああしていれば」という仮定であります。

ポツダム宣言が発表された時、ドイツは既に降伏していました。日本でも、沖縄が米軍の手に落ち、戦艦「大和」はあえなく撃沈され、主な都市は焼野原になっていました。それでも、戦争を継続しようとした戦争指導者の意図は何だったのか、首をかしげるばかりです。もし、日本がボツダム宣言を早期に受諾しておれば、原爆投下もソ連参戦も避けられていたかもしれません。

まあ、今となっては「言うも疎か」ということでありましょう。

「八月や、六日、九日、十五日」という川柳があります。「六日の広島」+「九日の長崎」=「十五日の敗戦」。これが太平洋戦争終結の方程式になってしまいました。

 第二次世界大戦は、核兵器をはじめ大量殺戮兵器の登場で、厖大な総力戦、破壊戦になりました。死者の総数は5500万人に及んだといわれます。

この大戦を、私なりに考えてみますと、過去の戦争に比べて際だって大きな違いを見出すことができます。

まず、第一の特徴は、攻撃目標として、一般市民が標的にされたことです。戦場と銃後の区別がなくなりました。

そして二つ目は、他民族に対する迫害や残虐行為が異常さを増したことです。

一言で言えば、この戦争では“武士道”とか“騎士道”といった古典的な精神が完全に消滅したことでした。戦争が、仁義なき戦いになったのです。

市民を標的にした例としましては、広島、長崎の原爆投下。ドレスデン空爆、ロンドン爆撃、東京大空襲など例を挙げればきりがありません。

大戦を通じての死者は5500万人ですが、この内、民間人の死者が3000万人に上り、半数以上を占めています。

他民族の迫害といえば、最大の惨事は、ナチスによるホロコースト。ユダヤ人大虐殺であります。ヨーロッパにいた600万人のディアスポラ、離散ユダヤ人が強制収容所に送られ、ガス室で組織的に殺されました。ユダヤ人の歴史は受難の歴史でありますが、バビロン捕囚も及ばない異常な惨事になりました。

日本の軍隊も、朝鮮半島、中国大陸、東南アジアで、戦闘員、非戦闘員にかかわらず、虐殺を行なったたといわれます。ナチス・ドイツほど組織的に行われていませんので、実体ははっきりしません。加害者が口をつぐんで、闇から闇に葬られた例も多く、やはり相当な被害者がいたと見られています。

こうした戦争に於ける虐殺は、主に枢軸国側の戦争指導者の質によるところが大きかったように思います。ドイツは悪魔的な独裁者ヒトラーに率いられていました。日本も、視野の狭い病的な軍閥が支配していました。

 私たちは、質の悪い政治家を指導者に選びますと、国民にも、近隣諸国にも、果てしない災いをもたらすことをあらためて肝に銘じなければなりません。

 先日、NHKのラジオ深夜便を聞いておりましたら、意外なインタビューを耳にいたしました。

海軍の重巡洋艦「利根」の乗組員だった川北さんという人の戦争インタビューです。

「利根」は一万トンあまりの重巡洋艦で、真珠湾攻撃からほとんどの海戦に参加して、満身創痍になりながらも呉軍港にたどり着き、戦後スクラップになっています。

この重巡洋艦「利根」は、ある時、敵国の輸送船を捕獲する任務についたことがあるそうです。輸送船が不足してきたので、敵の船を分捕って使おうという作戦です。「利根」は、インド洋で英国の大型輸送船を発見して、停戦を命じます。

ところが、英国の輸送船は大砲で武装していて、反撃を加えてきた。

そこで、「利根」は魚雷を発射して輸送船を沈めました。輸送船に乗り組んでいたイギリス人、インド人、中国人、数十人がカッターに乗って脱出し、捕虜として捉えられました。「利根」はインドネシアのジャカルタに向かい、捕虜を陸上施設に移そうとします。そこまでは、さしたる問題もなかった。

しかし、陸上の捕虜収容施設が満杯で、受け取りを拒否されます。

ここから、悲劇が始まりました。捕虜がいると次の作戦の足手まといになる。食糧を持たない。つまり、捕虜が邪魔になったのです。そこでどうしたか。

捕虜を処分する命令が出たのです。船室から捕虜を数人ずつ甲板に連れ出す。

まず捕虜を柔道の背負い投げで甲板にたたきつけて、相手の気勢を削ぐ。 そして、日本刀で打ち首にする。

ただ、なまくらの軍刀で切るものですから、上手に首が落ちない。地獄です。

そこで、銃剣で心臓を突き刺すことになる。

インタビューを受けた川北さんも、上官の「突け」という命令を受けた。                

そして、頭を空にして「突いた」と証言していました。上官の命令に反抗すれば、自分の命が危ない。ですから「可愛そうだという感情を押し殺して突いた。返り血を浴びた」と語っていました。

戦争とは、人間の正気を失わせるものです。

川北さんの話によりますと、「この虐殺は絶対に口にしない」というのが戦友との間の暗黙の了解になっていて、この話が世に出ることはなかったそうです。

勿論、軍の記録には留められていません。

軍艦同士が戦う海軍においてすら、敵国人の虐殺がおこなわれていた。まして、朝鮮半島、中国大陸、東南アジアに進駐した日本の軍隊が、何をしてきたのか、私は具体的には知りませんが、多分、多数の虐殺事件があったであろうことは、想像にかたくありません。

 古巣のNHKのネタばかりで恐縮ですが、次にNHKのアンケート調査を紹介いたしましょう。NHKと韓国KBS・TVの共同調査です。これは、日韓両国の国民が、相手の国をどう見ているかを調査しています。

まず、日本人に「韓国が好きかどうか」尋ねました。「韓国に好意を持っている」と答えた日本人は62%に上りました。

韓国人にも「日本が好きかどうか」尋ねました。ところが、「日本に好意を持っている」と答えた韓国人は28%に止まっています。相当大きなギャップがあります。

それから興味深いのは、「一番良く知っている韓国人は誰か」という質問に対して、日本人の答えは、勿論「ヨン様です。“冬のソナタ”で有名な韓国の俳優ペ・ヨンジュン」です。

それでは韓国人が一番良く知っている日本人は誰か、といえば「伊藤博文」だったそうです。韓国人は、伊藤博文が日本の初代総理大臣だったから知っているのではありません。今年は、韓国併合100年にあたるそうですが、伊藤博文は初代の韓国統監になった人です。博文自身は韓国併合の反対論者だったといわれます。しかし、初代統監になった怨みをかって、ハルビンで韓国人に暗殺されました。現代でも韓国人が一番良く知っている日本人が、この暗殺された伊藤博文なのです。

この調査結果を見ただけでも、日本人は過去の歴史をあっさり忘れ、韓国人は過去の歴史にこだわっていることがわかります。

人間は、「殴ったこと」はすぐ忘れますが、「殴られたこと」はなかなか忘れません。他民族の虐殺は、その民族の肺腑をえぐり、民族の誇りを致命的に傷つけてしまいます。もし立場が逆になって、日本人が大量に虐殺されていたとすれば、我々は相手を赦さず、報復を誓うことでありましょう。

第二次世界大戦を通して、日本とドイツは、近隣諸国に対する完全な加害者であり、他民族の虐殺という、取り返しのつかない大罪を犯したのであります。

「すべての罪は傲慢という車に乗ってやってくる」

出典を調べる暇がありませんでしたが、多分トルストイの言葉だと思います。

人間にとって、自立は必要であり、自信と自尊心を持って生きることは是とされ、必要なことでしょう。しかし、人間はしばしば脱線してしまいます。いつの間にか、自己中心になって他人を軽蔑する。自己主張が強くなって、自己を正当化する。

自己を絶対化していく。この思い上がったエゴイズムが“傲慢”という状態です。

“傲慢”は、神をも軽視、無視してしまいますから、これが“罪”の正体なのです。「すべての罪は傲慢という車に乗ってくる」とは、そういう意味なのです。人間の罪の根源は、このエゴイズムにあるといって過言ではありません。

さて、国家の犯す最大の罪は“戦争”です。これも、肥大化したエゴイズムから生まれます。ナチズムは、アドルフ・ヒットラーが独裁体制を確立。ゲルマン民族至上主義と反ユダヤ主義を掲げて、近隣諸国を次々に侵略しました。

日本の軍国主義は、天皇を現人神に祭り上げました。他民族の蔑視政策を煽り、侵略を正当化した大東亜共栄圏をスローガンに近隣諸国を蹂躙しました。ナチズムも日本軍国主義も、“エゴイズムの怪物”です。絵に描いたように大きな罪を犯してしまいました。トルストイの言葉を文字って言えば、「戦争は傲慢という車に乗ってやってくる」と言ってもいいでしょう。

「エフェソの信徒への手紙」の第2章には、「敵意という隔ての壁」が平和を妨げていることが書かれています。

ナチズムや日本軍国主義は、平和どころか、逆に他民族への敵意を煽り、国民を戦争に駆り立てました。

ところが、驚くべきことに、日本のキリスト教会がこの戦争を積極的に支援したのです。我々が所属している日本基督教団は、教団の名において戦争を支持し、内外に向かって声明を出しました。「靖国の英霊を安んじる道は敵殲滅の一途あるのみ」。軍に迎合するような勇ましいことを言っている。

そして、教会は戦争の勝利のための祈りを捧げ、皇居に向かって遙拝する教会もありました。国家が罪を犯したとき、教会もまた罪に陥りました。

日本基督教団は戦後20年以上もたって、鈴木正久議長の名で声明をだし、罪を懺悔しております。鈴木牧師はその中で、「私どもは“見張り”の使命をないがしろにいたしました。深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主に赦しを請うしだいであります」と述べています。「“見張り”の使命をないがしろにした」とは、どういう意味でしょうか。それを考えてみたいと思います。

新約聖書の巻末にある「ヨハネの黙示録」は、黙示文学と呼ばれ、内容を理解するのが難しいのですが、部分的には大変絵画的でイメージ豊かな表現があります。第1218節に「竜は海辺の砂の上に立った」と書かれています。

これは、どういう場面でしょうか。竜とは、悪魔、サターンのことでありまして、エデンの園でイヴを誘惑した蛇が変身したと考えればいいでしょう。

この竜が天上での戦いにやぶれたのです。竜はミカエルの軍勢と戦って破れ、地上に投げ落とされます。竜は、攻撃の矛先を地上の目標に変えました。地上のキリスト者を抹殺しようと、態勢を整えているところです。
それが「竜は海辺の砂の上に立った」と表現されているのです。そして、海辺の浜辺に立った竜、サターンは、怒りに燃えているのであります。竜は全人類を亡びに導く仲間を募ります。竜は、様々な協力者を味方にして戦いを続けています。

古代においては、ローマ帝国の皇帝ネロも味方につけました。第二次世界大戦では、アドルフ・ヒットラーや日本の軍国主義者を味方につけ自在に操りました。

そのサターンの企みを、こともあろうに、日本のキリスト教会は見抜けなかったのです。逆にサターンを助けることまでしてしまった。今思えば、考えられないようなことをしたのです。
私たちは、目先のことだけに目を奪われてしまうと、こういう過ちを犯してしまいます。悪魔の支配の真相を、しっかり見据えていないと、教会の戦いは誤るということです。

戦前の日本の教会は、サターンの動きを見抜けなかった。つまり、「見張りの使命をないがしろにした」ということでしょう。

平和を語るとき、わがロゴス教会には、誇るべき一人の人物がおられました。教会の創設者でもあります山本三和人牧師であります。

山本牧師は、特高警察監視の下、尋問と警告を受けながらも、時流に迎合しない気迫の証言を続けられたと言います。

当時は、天皇のために死をかえりみない行動が求められました。

しかし、山本牧師は、戦死を美化することに断固反対。「死は憎むべき敵、拒否すべきもの」と訴えられました。山本牧師の説教は、非国民的な死生観とみなされ、いわゆる“懲罰招集”を受けて一兵卒としてかり出されたそうであります。

私たちには、これほど激しい反骨を貫くことは難しいかもしれませんが、せめて、世界の動きや社会の動きを注意深く見守り、サターンの企みを見抜き、“見張りの使命”をないがしろにしないようにしなければなりません。そのことが、優れた先達の遺志を継ぐことであろうと思います。

第二次大戦といいますと、私たち日本人の記憶は、日本とアメリカとの間の太平洋戦争に絞られ、ともすれば、アジアへ侵略した歴史を忘れてしまうような傾向があります。しかし、これは大変まずいことだと思います。

日本が犯したアジア諸民族への迫害、蹂躙は、各民族に深い心の傷を残し、怨念を植えつけました。この怨みはなかなか拭いさられるものではないでしょう。日本人にとっては、とても厄介な問題です。

ジア各国は、執拗に“過去の歴史”を問い、日本の残虐行為を問題にします。

勿論、現代の我々日本人にとって気持ちのいいものではありません。つい、かっとなって、くどい、しつこいぞ、と反発したくもなります。ただ、再び“隔ての壁”を厚くするようなことだけは避けなければなりません。私たちは、どういう態度をとるべきなのでしょうか。悩ましいところです。

軍国主義の負の歴史にふれますと、「自虐史観」などと批判する勢力があります。しかし、アジア人の受けた痛みを無視して、彼らの主張をはねつけてしまうようなら、かつての軍国主義者がとった態度と変わるところがありません。過去の事実から逃げるのは、卑怯な態度です。

ドイツでは、全国民がナチスの犯した罪に対する反省と責任を受け継いでいる。

いまでも「愛国心」という言葉すら忌避される空気があると聞きます。私たち日本人も、ドイツと同じ立場に立たされていると再認識すべきです。中国や韓国などからの批判、攻撃は、時に過激さを強めることがありますが、私たちは、やはり、謙虚な心、憐れみの心、へりくだった態度、我慢強く、寛容な心をもって、対応し続けるべきではないかと考えます。かつて日本が一方的な加害者であった事実だけは忘れてならないと思います。

 イタリア中部のウンブリア地方に、“アッシジ”という古い村があります。世界遺産にもなっています。そのアッシジに、“聖フランチェスコ”という修道僧がいました。12,3世紀の中世に生きた人です。聖フランチェスコは、アッシジの裕福な商人の家に生まれましたが、隣国との戦いで捕虜になりました。

その時、貧しい人々への愛に目覚め、生涯清貧と奉仕の生活を貫いた人であります。この人が残した祈りに「平和を求める祈り」というものがあります。現代にも通じる有名な祈りですので、ご紹介いたします。紛争や対立や残酷さを避けるための、ひとつの鍵が示されているように思います。

わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。

憎しみのあるところに愛を、

いさかいのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、

疑惑のあるところに信仰を、

誤っているところに真理を、

絶望のあるところに希望を、

闇に光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

慰められるより慰めることを

理解されるよりは理解することを

愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。 

わたしたちは、与えるから受け、

ゆるすからゆるされ、

自分を捨てて死に、永遠の命をいただくのですから。

ここで言われておりますのは、仮に二つの国でいさかいがあるのならば、こちらから赦すことが出来ますように、憎しみがあるならば、こちらからまず相手を理解するように、という謙虚な態度であります。そこには、大人の愛というものが示されております。

そして、何よりも大切なのは、世界の平和を願うならば、まずは自分の心を平和にしなくてはならない、ということでありましょう。

 聖フランチェスコの「平和を求める祈り」には、信仰の奥義が秘められているように思います。                                完

お祈り

 天におられます主イエス・キリストの父なる神様日々、多くの恵みを与えてくださることを感謝します。日々、新たな体験をする機会を与えてくださることを感謝します。

きょうも、新しいことを学び、知識を増し加える機会を与えてくださいました。これからも、恐れず、あなたを証言できますように、機会を与えてください。

世界の平和は、まだまだ、遠いところにあります。サターンは、いまも地上で猛威をふるっております。わたくしたちに、サターンのたくらみを見抜く力を与えてください。

そして、平和を求める心を強めてください。

慰められるより慰めることを理解されるより理解することを

愛されるより愛することを、わたくしたちが求めますようにどうぞ、お導きください。

この感謝と願いを主イエス・キリストの御名によって、御前に捧げます。

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