天国への梯子

07.2.18


飯沢 忠牧師
創世記28:1022節(ヤコブの夢)

 聖書の中で神がご自身のことを語るとき「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とおおせになっています。神はなぜこのように語るのでしょうか。それはわたしたちは祖先に負うところがあると聖書は告げているのです。聖書は信仰の祖先の歩みを決して美化して語らず、その人たちの良いものも失敗も語り、神様はその人とどのように関わられたかを語っています。

 歴史の中に働き給う神のみ業を学ぶとき、過去、現在、未来を支配し給う神の力を知らされます。

そして、この方に依り頼んで歩まなければならないと知らされます。チャーチルの言葉に「過去を深く見る人は未来をも展望できる」とあります。

 これから私の証言において「わたしはヤコブの神である」と仰せになられた「ヤコブの生涯」から神のみ旨を学びたい。ヤコブの生涯については創世記の25章から49章までに書かれています。この機会にここを通読するのもよいことです。

神さまは「わたしはアブラハムの神、イサクの神」と仰せになられますが、イサクとリベカの間には長い間、子供が与えられませんでした。しかし、やがて神は彼らに双子の男の子を与えます。兄はエサウ、弟はヤコブとなづけられました。兄エサウは活発な子で野に出て狩に飛び回る狩人でした。父イサクはこの兄を溺愛します。一方、弟ヤコブは兄とは全く気質が違い、穏やかで思慮深い人でした。いつも天幕の中で母と共に生活している子でした。このことを創世記25:27〜28にはこのように記しています。

 やがて父イサクと母リベカの二人の息子に対する片寄った愛が悲劇を生むことになります。片寄った愛は愚かな人を造るという言葉どうりになります。今日の少子化時代に示唆を与えるみ言であります。

 さて高齢に達したヤコブは自分の生涯の最後の仕事として長男エサウに家督の特権を与え祝福の祈りを捧げるときを迎えます。ところが神さまは二人の息子がリベカの胎内にあったとき「兄は弟に仕えるようになる」とリベカに告げていました。そのことは25:23に記されています。

 イサクはエサウを愛するあまり、神の約束のみ言に逆らってまでエサウを祝福しょうとするのです。

「キリンも老ゆれば駑馬(どば、のろまな馬)に劣る」という諺があるように、イサクの盲目的な愛は神の御心に背いてまで愚かなことをしょうとします。これは親の情から出たあやまちであります。情にほだされて神の御心を第二とする行為であります。

イサクはエサウを祝福する前に彼のとってきた鹿の肉を食べたいと言うのです。妻はこのことを天幕の中で盗み聞きします。そしてリベカはエサウが鹿をとってくるまでに鹿の肉を用意しヤコブに毛深

ウを装わせるために獣の皮をヤコブの首と腕に巻き、ヤコブを父イサクのもとに鹿の肉の料理をもって行かせるのです。このことが27:18〜20にこのように書かれています。「ヤコブは、父のもとへ行き、「わたしのお父さん」と呼びかけた。父が「ここにいる。わたしの子よ。誰お前は」と尋ねると、ヤコブは言った。「長男のエサウです。お父さんの言われたとおりにしてきました。さあ、どうぞ起きて、座ってわたしの獲物を召し上がり、お父さん自身の祝福をわたしに与えてください。」」わたしの子よ、どうしてまた、こんなに早くしとめられたのか」と、イサクが息子に尋ねると、ヤコブは答えた。「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです。」

 ここでヤコブは神の名を用いて嘘をついています。恐ろしいことです。次の21を見ましょう。・・・・・ ヤコブの手は偽りの手であります。ヤコブの行為は自らの人格を偽る人間として最もいやしむべき行為であります。

 ルカ12:1〜2において主イエスは偽善についてこのように語っています。『とかくするうちに、数えきれないほどの群集が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。・・・』

「お前は本当にわたしの子エサウなのだな。」ヤコブは、「もちろんです」と答えた。イサクは言った。「では、お前の獲物をここへ持って来なさい。それを食べて、わたしの自身の祝福をお前に与えよう。」ヤコブが料理を差し出すと、イサクは食べ、ぶどう酒をつぐと、それを飲んだ。それから、父イサクは彼に言った。「わたしの子よ、近寄ってわたしに口づけをしなさい。」

ヤコブは自分が兄エサウであると偽って父に口づけしました。これはユダが主イエスへ裏切りの口づけをして敵の手に渡したことを思い出します。このようにしてヤコブは母の巧妙な策略をもって長男の特権の祝福を兄から奪ったのです。     さてヤコブはこれで幸福を手に入れたのでしょうか。不正の手段によって得たものは、たとえこの世的に幸せに見えても、その心は満たされないものであります。

 詩編の文語訳に「エホバ 彼らの願いをかなえたまいしがその悪魂をやせしめたまえり」(106:15)とあります。神の御意志に背いてまで自分の願いをかなえてみても、その魂は満足していない。むしろその魂をやせしめるというのであります。

 兄エサウは弟ヤコブに祝福を奪われて嘆き悲しみます。彼は弟の狡猾な生き方を責めるとともに彼の怠慢を見逃してはなりません。あるときエサウとヤコブの間にこのようなことがありました。エサウは狩に出かけて一日中、野を駆け回ったけれども、その日は一匹の獲物も得られず、空腹のまま家に帰ってきました。家ではヤコブが甘い煮豆を作っていました。兄は弟に煮豆を食べさせてくれと求めます。するとヤコブはエサウに長男の特権をゆずるならばこの煮豆を与えるというのです。兄は空腹に耐えかね、煮豆一杯と引き換えに長男の特権を弟に渡してしまうということがありました。

シセロは「愚かな人間の特徴は他人の欠点をあげて、自分の弱点を忘れているところにある」と言っています。ヤコブを責められない欠点はエサウにもあったのです。

エサウはその後、ヤコブを深く憎むようになります。彼は父の死を待って弟を殺そうと決心します。そのことを知った母は、ヤコブを自分の郷里ハランに逃げさせます。諺に「兄弟は他人のはじめ」というのがありますが、血を分け合った兄弟の間にさえ利害と欲がからむとこのような兄弟愛さえも引き裂いてしまいます。主イエスも「あらゆる欲に対してよくよく警戒しなさい」と教えています。

 ヤコブは故郷を離れて一人旅に出ます。そして彼は砂漠で夜を迎え石を枕に物悲しい中で 眠りにつきます。すると彼はその夜、夢を見ます。(28:12〜15)「彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」巧妙な策略と偽善をもって兄から長男の祝福を奪い取ったヤコブが見た夢は、何を意味しているのでしょうか。

 天にまで達する階段が、梯子が地に向かって伸びている。ここはイエス・キリストが私たちと神との間に執り成し給う神のみ業を暗示しています。

 ヤコブは神さまに最も嫌われる偽善の罪を犯した者であります。しかし神さまはアブラハム、イサク、そしてヤコブにご自身を啓示され、やがて私たちに神の独り子イエス・キリストを遣わし、十字架の死と復活をもって私たちを救い、神の子として下さり天国への梯子をかけて下さった方であります。

夢から覚めたヤコブは、神さまはどのようなところにおられる神であるかを知るのです。霊的な目覚めをした者はいかなる所も神の家、そこが天国への門であることを知るのです。

ヤコブのように逃亡者として人生の荒野をさ迷い、孤独に耐えかねて一人冷たい枕に涙して泣き寝入りする者にも、神さまはその人の人生のどん底にまで下りて来てくださりそこを天の御国に通じる救いの門として下さるのです。

私たちの霊の目が眠っている時には、このことを知らないのです。今朝、ヤコブに啓示された神は、私たち一人ひとりに臨んでおられる神であります。

主は今朝も「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であると語りかけておられます。

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