愛の出来事

飯島隆輔伝道師(早稲田教会伝道師)

 ルカによる福音書 10章25〜37節 (‘06.8.20)

8月は61年前に広島・長崎に原爆が落とされた多くの市民が一瞬のうちに亡くなりました。原子爆弾の恐ろしさを十分に知りながら、その後も核実験が繰り返され、核保有国が増えています。又、チェルノブイリ原発事故のような大事故が起り、多くの人が亡くなり、苦しんでおります。8月15日は昭和天皇が国民に終戦を宣言した日で終戦後61年経ちますがこの戦争体験を風化させないで記憶し、言い伝え、この8月は特に平和を願い求める月として祈りの中に覚えたいと思います。

今日の聖書の箇所の前の部分は「最大の戒め」を巡る論争です。律法の専門家はイエスを試そうとして、「何をしたら永遠のいのちを引き継ぐことができるか」(25節)と尋ね、論争を挑みます。それに対してイエスは「律法には何と書いてあるか」「あなたはそれをどう読んでいるか」(26節)と言って、客観的な律法の知識だけではなく、主体的にどう受けとめ、どう行動するかと、行動、姿勢を問い、律法学者はこれに対し、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。』とあります。」申命記(6:5)とレビ記(19:18)を引用して答えます。

神への愛は、神の愛に対する応答であり、神に愛されたイスラエルの民が神の愛の行為に相応しく応えようとする姿勢です。この言葉は神に対する応答として人間の心、感情、意志、悟性を通して神に献身することが表現されております。旧約聖書の神はイスラエルの神であり、イスラエル民族を選び、イスラエル民族を愛し続けた神であります。従って申命記が隣人を愛しなさいと言うとき、その「隣人」とはユダヤの同朋、ユダヤ民族を意味します。全ての民族ということではなく、神によって選ばれた民、イスラエルの民であります。

イエスの時代にはユダヤ本土のには沢山の異邦人、外国人が住んでおりました。ユダヤ教の律法学者や宗教指導者でるラビたちは非常に狭い民族主

義であり、ユダヤ教は偏狭な民族宗教であったわけであります。

律法学者らの答えに対して、イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい」と言い、神と隣人とを愛することを一つのものとして捉え、それを他の全ての戒めを総括する中心的な「最大の戒め」としました。神に対する愛に導かれる人間のみが隣人の人格を自分自身と同じく評価することができるとかんがえました。

律法学者に対してイエスは「正しい答えだ」「それを実行しなさい。そうすればいのちが与えられる」(28節)と言いますが、彼らは元々実行などする気がないので「それでは隣人とは誰ですか」と問いかけてきます。イエスは律法学者の問いかけにまともに乗らないで、一つの物語を語ります。

「善いサマリヤ人の譬え」

エルサレムは標高700メートルの所にありますが、エリコという町は海面下250メートルの所にあり30キロの道はずっと坂道です。岩だらけの荒涼とした曲がりくねった坂道は追いはぎには好都合の場所で、当時しばしば追いはぎ、強盗がでました。

「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いはぎに襲われた」(30節)「追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。」(30b)。重症を負ったこの人は重症です。恐怖と痛みでうなって道の傍らにうずくまっていました。そこを祭司が通りかかりました。この祭司はエルサレムの神殿での仕事を終えて、エリコの家に帰る途中であったと思われます。その祭司は追いはぎに襲われれて重症を負い助けを求めている人を見つけるを、道の向こう側を通って行きました。(31)。

今度は別の人が通りかかり、その人はレビ人と言われている人でした。彼もエルサレムの神殿に仕える人でしたが「その人を見ると、道の向こう側を通って行った。」(32)のです。神に仕え、神殿で仕事をする祭司やレビ人が、神の戒めを無視して、同朋の苦難を見過ごしてしまうことは考えれれないことではないです。神の愛の戒めを実行することこそ、彼ら神に仕える祭司やレビ人に求められていることではないでしょうか。 3番目にサマリヤ人が通りかかります。サマリヤ人とは、当時、ユダヤ人にとって最も憎むべき敵と見なされていました。サマリヤはアッシリア帝国によってBC721年に征服され、それ以来人種的、宗教的に混淆し、純粋を守るユダヤ人からは堕落したと民族として蔑まれてきましたが、両者の間にはもっと激しい対立があり、和解しがたい関係

で、現代のイスラエルとアラブのような敵対関係だったようです。(ヨハネ4:6)この地域は大昔から民族的対立や戦争があったところで、現在でもイスラエルとパレスチナが長い間戦闘状態になっており、又、レバノンではイスラエルとヒズボラが戦争のような状態になっております。

原理主義という言葉があります。自分たちの考えや主義主張がが絶対に正しいと信じ、他の考えを一切受け入れない人を原理主義者と言います。これはイスラム教にも、ユダヤ教にも、キリスト教にも、仏教にもあります。今、レバノンで起きている紛争は、イスラムシーア派の民兵組織ヒズボラという原理主義者の集団とイスラエル原理主義の戦いであると言われております。

強盗に襲われたユダヤ人に近づいて来たのは日頃敵対しているサマリヤ人でした。そのサマリヤ人は「そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油と葡萄酒を注ぎ、包帯をして、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」(33,34)

彼は強盗に襲われた人を見て冷静に、必要なことを躊躇しないで行動しました。、彼の持物の中から葡萄酒をとって傷口を消毒し油を塗り包帯をし、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って介抱したのです。そして翌朝、宿屋の主人に銀貨2枚を渡してこう言います。「この人を介抱して下さい。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」

彼のこの行動は生きた出会いから生まれたものです。彼は強盗の襲われた人に出会うことによって、それまで予定していたこと、計画していたことを止めて、全く別の行動をします。彼は自分がユダヤ人と敵対しているサマリヤ人であることを忘れ、宗教的、民族的に制約されないで自由に、冷静に行動します。彼は現に直面している状況の中で生きるのであります。このサマリヤ人は、自分が道に倒れている不幸な旅人に「最も近くに立つ者=隣人」であることを見いだしたのだからです。この瞬間には、どこを見渡しても、自分より以上にこの男に近くに立つ者は誰もいませんでした。

隣人という概念は、他者に対する私の関係で用いられるものです。現実の生においては、人は他者に近づいて行くことによって、始めて『隣人となる』というべきではないでしょうか。彼は「立ち止まり、危険を冒し、回り道をし、費用を負担します。彼は見知らぬ人を介抱するために身銭を切ります。そのことによって彼は倒れている人の隣人になったのであります。
私たちの通常の現実には、このサマリヤ人の行ったようなことはあり得ないことでしょう。明らかに敵である人に対して、その人が困っているからといって助けることはないのではないのでしょう。

しかし、こういう私たちの現実を超えて不可能と思われるようなメッセージが神から与えられております。その『不可能な可能性』に対して信頼を置きなさい、とイエスは語っているのです。私たちがそのような逆説的な筋の解決の中に、一つの奇跡のような出来事を読み取る時、私たちは心を動かされて、この目に見えない『不可能な可能性』に私たちの人生をかけるとき、私たちはすでに神の愛の出来事の中に立たされているのです。

この物語においてイエス、福音固有の新しさを『愛の出来事』として示しているのです。

このサマリヤ人の姿は、ユダヤ人であれ非ユダヤ人であれ、社会から敵意や憎しみ、差別や偏見など否定的なもののほか何事をも期待できない全ての人々のために連帯するものとして立っています。イエスは『善いサマリヤ人』の譬えを通して、隣人愛をユニバーサルに拡大したのであります。

「さて、あなたはこの3人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」とのイエスの問いかけに対し、律法の専門家は言います。「その人を助けた人です。そこでイエスは言われた「行ってあなたも同じようにしなさい」このイエスの言葉を心に留めたいと思います。   

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