「語り継ぐべきこと」07.11.25

聖書「出エジプト記12章24節〜28節」 「ヨハネによる福音書13章1〜7節」

飯島隆輔伝道師(早稲田教会伝道師)

今年もいろいろのことがありました。私が一番気に掛かったことは高校の歴史教科書問題でした。高校の歴史教科書の中での、沖縄戦での集団自決の記事のことであります。

62年前の沖縄戦の時に起きた一般住民の集団自決事件に、日本軍が関与していないという書き方でないと教科書検定が通らない、つまり住民の集団自決は彼らが自主的に行ったことであるという検定委員会の意向に従わなければ検定は合格しないということに11万人もの沖縄の人たちが抗議した事件がありました。

 私たちの日本では都合の悪い事は隠蔽したり歴史は忘れ去ったり意識的に改ざんしたりする傾向があります。昨年はマンションやホテルの建築構造の擬装問題が大きな社会問題になりましたが今年は食品、食物関係の擬装、偽造が次々に発覚しました。消費期限記載の改ざんや擬装、表示と異なった物を食材に使用する、こういう事が食料品ばかりではなく、建築の設計や施工、鉄骨などの建築資材などいろいろなところで発覚し、責任者たちが揃って頭を下げる光景をテレビのニュースで何度も何度も見ていると、日本社会のモラルとはこの程度だったのかと、がっかりしてしまいます。

わたしは30年以上前に2年間沖縄YMCAの主事をしました。日曜日は家族揃って首里教会に行っておりましたが、牧師は金城重明先生でした。金城牧師は沖縄戦の時に集団自決があった渡嘉敷島に育って、沖縄戦の時に家族全員が集団自決事件に遭遇し、生き残った方です。先生は数奇な人生を歩み、青山学院大学の神学部を出て牧師になりました。

先生は「集団自決を心に刻んで」一沖縄キリスト者の絶望からの精神史」という著書の中で、この様に言っております。「わたしは、渡嘉敷島の集団自決の生き残りとして、その体験の重みを身に負いながら、生き続けてきました。戦争の語り部、平和の証人として、戦後50年の後半を、県内外の講演や証言に出かけました。各地で多くの方々との出会いを通して、心情的には忘れたい集団自決を語る勇気が与えられ、その本質と平和の尊さについても思いを深くするようになりました。あの悲劇を忘却の淵に追い込まないためにも、わたしの戦後は自分が生きながらえる限り続くのです。」金城牧師はその著書の中で次のようにも語っています。

「村の青年と防衛隊員に配られた手榴弾が、一個ずつ手渡され、その周りに家族・親戚が10人、20人と群がりました。私どもの家族には手榴弾はありませんでした。炸裂音とともに悲鳴があがります。しかし、手榴弾は、栓を抜いて発火させようと試みても、操作ミスも手伝って多くが不発に終わりました。したがって、手榴弾による死傷者は少数に留まったのです。そのことが、逆により恐ろしい惨事を招く結果になろうとは、誰が想像し得たでしょう。(中略)中年の男はついに小枝をへし折りました。そしてその小枝が彼の手に握られるや否や、それは凶器へと変わったのです。彼は、自分の愛する妻子を狂ったように殴殺し始めました。この世で目撃したことがない、いや想像したことさえない惨劇が、私の目前に出現したのです。以心伝心で、私ども住民は、愛する肉親に手を掛けていきました。地獄絵さながらの阿鼻地獄が展開していったのです。(中略)私たちは、生き残ることが恐ろしかったのです。わが家は両親弟妹の四人が命を絶ちました。私はその時十六歳と一ヶ月で、多感な少年でした。」

金城少年と兄はどうせ死ぬなら敵を一人でも殺してからと米軍に切り込み、失敗して逃亡の末、捕虜になり、孤児になって生き延びますが、そこで一人のキリスト者に出会い人生が変わるわけです。

沖縄戦とは何だったのか、広島長崎の原爆投下とはどのようの意味があるのか。太平洋戦争は何のための、どういう戦争だったのか、国民や近隣諸国にどのような結果をもたらしたのか。自分たちに都合の悪いことでも良いことでも歴史を子孫に継承していく必要があるわけです。

さて、イスラエルの最も大切な祭りは過越の祭りです。

過越の祭りは遊牧に出かける民が新しい牧草地に向かって移動する夜に旅の安全を願い、子羊を屠ってその血を家の入り口に塗る魔除けの儀式でありました。この儀式がカナンの農耕の祭りに起源持つ除酵祭という祭りに結びつきました。そしてエジプトの奴隷であったイスラエルの人たちが神の奇跡によって解放され、エジプトを脱出したという歴史を記念する祭りになりました。過越という言葉は、エジプト全国の長子が主の使いに滅ぼされた夜、門に子羊の血のついているイスラエルの家の上をその災いが「過越して」無事だったというイスラエルの故事に由来しています。過越の祭りはイスラエル民族の原点ともいうべき出エジプトを記念し、神の救いの恵みとして感謝し、民族の誕生を意味する重大な記念日でありイスラエル民族の中で最も重要な祭りでありました。過越の祭りはイエス・キリストの時代にも引き継がれ、メシヤが過越の夜に現れてイスラエルを外国の隷属から解放するものと信じられておりました。イエスはそのような偏狭な民族主義的な思想を排除しましたが、彼がこの祭りの頃に死んだので、原始教会はイエスの死に新しい過越としての神の救いを見るようになりました。そして最後の晩餐を神の新しい過越の救いを表す式として意味づけしました。この過越の子羊は、人類を罪から救い出し、真の自由を得させるキリストの型とされ、主の晩餐の型とされました。

過越の祭りは神とユダヤ人の絆を子どもたちに伝え、自覚させ、民族的アイデンティティーを次の世代に継承されるという教育的性格を持っておりました。親は子どたちに「この儀式にはどういう意味があるのですか」と過越の祭りの由来を尋ねさせ、親は「これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を打たれたとき、エジプトにいたイスラエル人の人々の家を過越し、われわれの家を救われたのである」と答えさせ(26節)、子どもたちにイスラエルと神の関係の歴史を語り伝え継承させているのです。

イスラレルの人たちは今も紀元前1300年頃の出エジプトの出来事を過越の祭りを通してその意味を親から子どもに言い伝え続けております。イエスの時代にはイスラエルの人たちは、過越の祭りの夜には家で静かに葡萄酒と苦菜と種なしのパンを食べ、子羊の肉を食べました。

そして父親は子どもたち出エジプトの出来事を物語りました。現在でもイスラエル共和国では、過越の祭りを最大の祭りとして守っており、この祭りを通してユダヤ人たちはイスラエル民族のアイデンティティーを確認し、歴史を継承し、神への信仰が家族の中で継承されている訳です。私たちはイスラエル人の過越の祭りを通しても彼らから多くのものを学ばねばならないと思います。彼らが奴隷であったの国、逆境の地エジプトからの脱出は神の救いによるということが、旧約における救済信仰の基盤であります。それはイスラエル民族にとって単なる歴史的回想にとどまらず、現実の困難からの救いを確信する根拠であり、やがて来たるべき終末における救いを待望する拠点でもありました。その意味で、旧約の人々はくり返しくり返し出エジプトに戻り、又、出エジプトの出来事から出発したわけです。

 旧約聖書学者の関根正雄先生は「彼らは過去に起きた出来事をその場限りの「物語」として置き去りにせず、それが現在の自己、つまり民族にとって持つ意味を問い、記憶し、更にそれを全体の共有財産として後生に伝えることを、彼らの個人としての、民族としての義務と考える」。と言っております。

私たち日本にも神社の祭りがあります。浅草の三者祭り、京都の祇園祭り、葵祭りなどの大きな祭りも、また近くの八幡神社のお祭りも沢山ありますが、その祭りがどういう意味を持つのかなどということをあまり考えたこともありませんし、教わったこともありません。神社の祭りでは五穀豊穣を感謝し家内安全、商売繁盛を願い御輿を担ぎ山車を繰り出し、それからは飲めや歌えの大騒ぎをしてお終いです。

私たちクリスチャンが家族や社会に語り嗣ぐべき事とは何でしょうか。

それは、勿論、イエス・キリストの出来事であります。イエスキリストが生涯を通して全生命をかけて行った様々な行為であります。その結果の十字架の死であり、復活であります。私たちクリスチャンはイエスキリストを救い主として信じ、イエスキリストの弟子となり、イエスキリストに従って生きることを決意している者です。イエスキリストに従って生きる事のすばらしさを家族や社会に伝え、継承するためにはイエスの出来事を語り伝える必要があるわけです。

 ヨハネによる福音書13章1〜7節は「弟子の足を洗う」と小見出しがついているように、主イエスが弟子たちの足を洗うという物語で、私達クリスチャンは何度も読んだり、説教で聞いたりする箇所です。クリスチャン版画家の渡邉禎雄さんは聖書の物語を題材にして、沢山の版画を作りましたが、 キリスト教信仰の本質を述べているというので、この洗足の物語からも版画を制作しています。 1節でヨハネの記者は、主イエスは過越の祭りの前に弟子たちと夕食をした時、弟子たちの足を洗ったと書いています。4節でイエスは弟子たちの足を順番に洗います。イエスの時代、旅行や日常生活はすべて徒歩でありますから、足を洗うのは日常的なこと普通のことでした。そして足を洗うのは召使いなど身分の低い人の仕事でした。「イエスは食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれたと」書かれています。このイエスの姿は奴隷の姿だという人がいますが、私たちは神のしもべのしもべですから、神の奴隷の奴隷といっても良いわけです。 「それから、イエスはたらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」とあります。イエスは弟子たちを愛し抜かれて、極みまで愛されて彼らの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでその足を拭いたのです。イエスは弟子たちを愛し、彼らに仕えたということです。自らを低くし、奴隷のようにひざまずいて弟子たちに仕えているのです。弟子たちにひざまずいて彼らの足を洗うということはイエスの愛の極みなのです。私たちの社会で、私達の人間関係の中で お互いに愛し合うこと、仕え合うことが無くなってしまった時、家庭や学校、社会、国家に倫理や道徳は無くなってしまいます。

今、私達の社会は正に公正、平等、正義など人の生きる基準が全くない、何でもありの無秩序な社会、弱肉教職の不法社会の真ん中にあるといってもよいでしょう。日本だけのことではないと思いますが、仕える、仕え合うという言葉は忘れ去られ、死語になって、教会など特殊な社会の用語のようになってしまっているようです。私達キリスト者は少数ではありますが愛し合い、仕え合う、ことの大切さを知っており、それを世の光、地の塩として、何らかの形で実践しようとしているのです。イエスキリストが私たちの足を洗い、私たちに仕えて、互いに仕え合うこと、愛し合うことを自ら教えてくれて、私たちは神の愛を知ることができたのです。それが生きる規範になると確信するのは、神が私達を愛した、主イエスが弟子である私達を愛し、私達に仕えてくれたからなのです。

私たちはイエスの弟子、弟子の弟子として、イエスを見習い、私たちが互いに仕え、愛し合うことの喜びを知っているのです。

イエスキリストが2000年前に弟子たちの足を洗い、極みまで、十字架の死に至るまで弟子たちを愛されたという過去の出来事を教会の中だけで語られる「物語」としないで、それが現在の自分自身、つまり私たちにとってどういう意味を持つかを問い、記憶し、更にその物語と意味を全体の共有財産として後生に伝えることを、個人としての、教会としての義務と考える必要があるのではないでしょうか。

しかし私たちは、イエス・キリストに倣ってイエスと全く同じことをすることはできません。それぞれの生活の中で、自分のできる範囲で、互いに愛し合い、隣人に仕えることが求められています。それは義務や他からの強制ではありません。イエス・キリストによって愛された、生きる意味を与えられた、救われた者の喜びとして、神への応答として主イエスキリストを頭とする教会の使命・ミッションとして、隣人に仕え、隣人を愛するのです。隣人に仕え、隣人を愛することが神を愛して生きることなのです。

イスラエル民族が今もなお出エジプトを神の救いの決定的出来事として子孫に語り伝えるように、私たちもイエスキリストの出来事を語り伝えることを喜びとして実践したいと思うわけであります。

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