権威に従うべきか
マタイ20:25-27 08.2.24(受難節第三主日)

飯島隆輔伝道師(早稲田教会伝道師)

2月11日の建国記念日は、神話に基づいて天皇中心の日本の国が始められたことを記念するという、旧紀元節の復活を意味するものだということで、記念日の制定に反対する趣旨でキリスト者が1967年から毎年この日に実施している反対する集会があります。今年は第42回建国記念の日粉砕・靖国国営化阻止2.11東京集会という事で千代田区一ツ橋の教育会館で行われたので参加しました。参加者は執念というか、信念というか建国記念日が制定されて以来毎年ずっと40年も集会と勉強を続けております。

集会には約150名が参加し、恵泉女学院大学の前学長の石井摩耶子先生が講演をされました。「戦争と教育ー戦争協力に仕向ける、思想統制の道具としての教育の問題性」という講演で、今の教育は教育の民営化・学校の商品化であり、日の丸・君が代問題、靖国神社問題、憲法改悪、政教分離の問題などを論理的に講演されました。

参加者は建国の日が制定や靖国問題が信仰の問題であると考える人たち、信仰の問題ではなくても極めて重要な問題であると考えるクリスチャンが集まっていたようです。終わりに大会宣言を採択し、有志によって小川公園までデモ行進をしました。こんなに厳重な警護が必要なのかと思うくらいに物々しく大勢の警官と機動隊にガードされたデモ行進は30分ぐらい静かに靖国通りを歩きました。

何年か前に小泉純一郎前首相が8月15日に靖国を公式参拝すると予告しておいて突然8月13日に靖国神社を参拝した日に、首相の靖国神社参拝に抗議する集会とデモ行進に参加しましたが、この時はある種の恐怖を感じました。約100名のこのグループは千鳥ヶ淵の戦没者霊園に集まり集会した後に千鳥が淵の桜並木から靖国通りに移動して靖国通りを市ヶ谷方面に行進しました。デモ行進というよりも二列になって他の通行人を避けながらようやく歩道を歩くという状態でした。靖国通りは通行止めになっていて右翼の街宣車が何台も止まっていて軍歌を大音響で流し、又、迷彩服の右翼の隊員がデモ隊を挑発し、罵声を浴びせ、抗議の行進をしている隊列に殴りかかってくるのです。

警官隊は右翼と市民の間に割って入って市民を守るはずなのですが襲いかかる右翼を積極的に制止せずに、暴力的な行動
を容認し、放置しているように感じました。私たちのグループは高齢者や婦人が多く、腕力の強そうな右翼や警官によってけが人を出してはいけないと心配しました。皆さんの中には安保闘争でのデモを経験した方も多いと思います。私は中国の天安門事件や韓国の光州事件のニュースを思い出し、政治は暴力であると改めて思い直しました。それ以降、教会の皆さんは安全のためにこの種のデモ行進には参加しないほうが良いと言っております。

私たちは普通の生活の中で意識的に政治を感じる機会があまりありません。政治を感じたり考えたりすることは選挙の時や税金を払う時くらいです。税金は強制です。法律を守ることや税金を払うことは任意やボランティアではなく、強制です。従わなければ差し押さえや競売にされ、又収監されます。国家権力は警察力、軍隊という暴力的裏付を持っています。普段は姿を隠していますが権力は力です。私たちの生活はすべての事が政治に左右されているわけです。戦争も平和も、貧困も飢餓も、年金問題も教育もすべて政治によって決定され左右されます。

イエスはこう言っております。そこでイエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。(マルコ10:42−45、ルカ22:25−27)

異邦人の支配者とは当時のローマ帝国のことです。ローマ帝国がイスラエルの民に圧政を加えているという事がここに書かれています。岩波訳ではこう書かれています。「あなた方が知っている通り、異邦人の支配者どもは、彼らを暴圧で支配し、大いなる者どもは、彼らに圧政を加えている。」と。

そしてイエスはこう続けます。あなたたちの間ではそうではないであろう。むしろ、あなたたちの間で大いなる者になりたいと思う者は、あなたたちに仕える者となるであろう。また、あなたたちの間で筆頭でありたいと思う者は、あなたたちの奴隷になるであろう。

イエスはローマ帝国の政治支配の中で、ローマ帝国の植民地であるイスラエルという国に生まれ、ローマの暴圧に支配されて重税と貧困に苦しみながら生きたイスラエルの人びとと共に生きた人であります。ローマの官憲によって捕らえられ、当時ローマが他民族を処刑するときに用いたローマの最も残酷で侮蔑的な死刑方式である十字架刑によって処刑された人間です。政治権力の強大さ、恐ろしさを最も良く知っていた人であり、政治を身体で受け止めた人ではないかと思います。

 そのイエスは政治をどのように見ていたのでしょうか。

イエスをわなに掛けようとする「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」というファリサイ人の質問に対して、イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えております。(マタイによる福音書22章17節〜21節)。税金を納めるということは国家に従うということです。どんな過酷な税金であっても、どんな悪法でも、一度それが作られたならば、法律は守らなければならないし、決められた税金は納めなければならない。どんな理不尽な法律でも、法律を守らなければ罰せられるし、税金を納めなければ、権力によって、暴力によって取り立てられます。イエスの周りに集まってくるユダヤの貧しい、苦しんでいる人たちに対してイエスは、革命を起こしなさいとか、税金を払わなくても良いなどといっておりません。ローマに対する税金、ユダヤの王に対する税金も納めなさいと言っております。しかしイエスは国家に対して税金を納める以上にもっと大切なものとして次のように言っています。「あなたたちの間で大いなる者になりたいと思う者は、あなたたちに仕え

る者となるであろう。また、あなたたちの間で筆頭でありたいと思う者は、あなたたちの奴隷になるであろう。」

パウロはローマの信徒への手紙 13章1−2で次のように言っています。

「人は皆、上に立つ権威に従うべきである。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」

上に立つ権威とは国家であり、国家権力であります。

392年にキリスト教がローマ帝国の国教になってキリスト教がマジョリティーになったことにより、教会が自ら権力の側に立って権力体制を支える理論をこのロマ書のパウロの言葉から導き出し、これを国は神によって建てられたものであるという神権国家論の論拠として用いてきたことも事実です。

教会の保守性や権威主義を批判する際に、パウロのこうした発言にその真意を測りかねて戸惑いを覚える者も少なくありません。しかしパウロはそのような事を言っているのではありません。パウロは教会指導者として当時非常に弱小で新興の宗教であるキリストを信ずる集団、つまり教会がローマ官憲や役人に対して、どのような態度をとるべきかについて実際的な行動を教えているのです。パウロの時代キリスト教会はユダヤ教からは異端視され迫害され、ローマ当局からは怪しい集団と警戒されていました。またキリスト教の宗教的、政治的熱狂主義のグループが帝国の権力に反抗して破壊される事が繰り返されておりました。パウロはこうした状況を憂慮して、熱狂主義を押さえる的意図をもってローマ帝国の首都の教会に向け「上に立つ権威に従うべきである。」と書いたと考えらます。「権威」はローマ帝国の官憲です。彼らが賄賂を取り、しばしば理不尽な振る舞いをしている事を知った上でなおかつ、国の権威が神の任命によるものであり、それに従えとパウロが語るのは、信仰者が宗教的熱狂に流されて、日常生活の枠を踏み越え、官憲と衝突して自ら破壊の道へ突っ走らないためであります。

イエスもパウロも時の国家権力に反抗するな、日常生活の枠を踏み越えて、迫害されて自滅しないように、税金を納め権力には従いなさいと言っております。しかしそれで終わるのではなく、われわれイエスを神の子と信じる者にはキリストによる救い、命が与えられている、この世界とは違う基準による生き方、希望が与えられていると言っています。

私たちはイエスキリストの生き方、イエスによって与えられた価値観、人生観によって生きておりますからこの世界の事に固守しません。お金や財産、名誉や地位、権力にも絶対いとは思っていません。もっと大切なものがあると考えております。しかしこの世界、社会は神が作ったものであり、愛したものであります。私たちは神がこの世界の主であり、この社会に、世界に正義と平和と愛が実現されるように祈っております。正義と平和と愛が実現されるためには国家や権力と闘わなければならないこともあります。ブッシュの率いるアメリカの政権によるイラク戦争や金正日の北朝鮮が正しい事とは思えません。憲法改悪、日の丸君が代、教育基本法改正など日本政府の在り方も間違っていると思います。パウロやイエスは私たちに具体的な生き方、行動を指示しません。

私たちがどういう生き方をするか、どういう行動をするか、それぞれが各自で決めなさいと言っておられるのではないでしょうか。

2.11集会に参加することはすべての人ができる生き方ではありません。かれらは40年間も国家権力に反対意見を言い続けています。決して熱しないで冷静に希望をもって行動し言い続けています。状況や判断によってデモに参加する人もしない人もいて良いのではないでしょうか。

パウロはローマ人への信徒への手紙でこう言っております。

「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望をほこりとしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むと言うことを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」

私たちはキリストの信仰、価値観を得ることによって、相対的なものを相対的なものとして見ることができるのです。生きることに余裕ができるのです。

40年間続いているというこの2.11集会によって、キリスト者の社会に対する、政治に関わる関わり方を学ぶことができるのではないでしょうか。

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