復活する

聖書:マタイ28:4-7/08.3.9

 飯島 隆輔伝道師(早稲田教会伝道師)

聖書マタイによる福音書28:4−8  番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かにあなたがたに伝えました」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。

超高齢社会で、90歳代の高齢者を70歳代の息子や娘、連れ合いが介護するという、老々介護は普通になっております。私の勤務している特別養護老人ホームは88人が暮らしております。平均年齢は85歳で女性が80%です。毎年14,5人亡くなられます。病院で延命治療をして亡くなるより、天寿を全うされ親しい家族に看取られながら施設で自然に亡くなられる方法もありますよと言いますと、家族も納得されて殆どの方が施設で看取られます。若い年齢で不治の病や事故、自殺で亡くなるのと違い、高齢で自然に亡くなるのは不幸な事、悲しむべき事ではない、むしろ幸せな事だと私は思っております。一般の死生観も変わってきているのではないでしょうか。神道の影響でしょうか昔は死を不浄な物として忌み嫌い、葬式から帰ってきますと塩を身体に振りかけて清めるという風習が今でも残っております。しかし死は不浄のものでも忌み嫌うものでもありません。今は死ぬ事を自然の事として受け入れようとしているように思います。葬儀も変わってきてまして、家族や近親者だけで静かに弔い、送り出すという家族葬が増えてます。私たちクリスチャンは生きていても死んでも、復活したイエスキリストによって永遠のいのちを与えられ、天国、神の支配に入れられているという信仰を持っております。愛する人を失い別れる事は辛い悲しい事ですが、神の元に行き神の国で再会するという信仰で死を受けとめることができます。

 さて、私たちは今、受難節を迎えており23日には主の復活を共に祝います。イエスの十字架と復活はキリスト教教義の根幹をなすものと言ってよいでしょう。クリスチャンにとってイースターはクリスマスより重要です。しかしイエスの十字架と復活を強調するあまり、それ以外のイエスの言葉や説教、行為などは重要でないという人がおりますが、それは間違っているのではないでしょうか。イエスは病人や寡婦、障害者や貧しい人たち、社会から蔑まされていた徴税人や売春婦たちの友となり彼らを愛し、一緒に悩み苦しみ、悲しみを共に背負ってくれた人であり、病を癒してくれた人であります。

そういうイエスに私たちも感動し励まされ、希望を与えられ、いのちを与えられているのです。聖書の中でイエスはパリサイ人や律法学者に代表されるユダヤ教の律法主義を批判し、彼らの生活基盤を脅かしたため彼らの反感を招いて十字架上で殺されてしまったのです。イエスを十字架に掛けたのはユダヤの律法主義者たちです。

かつて、沢山の聖書学者がイエスの一生をイエス伝として書こうと試みました。アルベルト・シュバイツアーは日本ではアフリカで医療活動をし、密林の聖者とも呼ばれ、世界平和に貢献したノーベル平和賞受賞者として有名ですが、彼は著名な神学者でもありました。そしてイエス伝を書こうとしましたは書けないと言うことが判りその希望を断念しました。その理由は、福音書の記者たちの関心はイエスの正確な行動、言動を書くことではなく、イエスに対する彼らの信仰を彼らの信仰の集団に伝える事だったという事が判り、福音書からはイエス伝は書けない事が判ったからです。福音書はイエス・キリストを信仰の対象、救い主としてのイエスを書いたものです。このことに気づいたシュバイツアーは、イエス伝を書くことを断念しました。福音書はイエスの伝記ではなく、イエスを、キリストを信ずる人たちが、信仰の対象であるイエスをその集団に伝えるために書いたものです。この考えは今では定説になっております。ガリラヤで山上の説教をし、五千人の人々にパンと魚を与える奇跡を行い、病人を癒し、死者を復活させたイエスは十字架につけられて死んだイエスであり、復活して弟子たちに現れたイエス、信仰のイエスです。私たちはイエスをキリスト、救い主と信じます。信じるとは全存在の心が動かされ、自分が神によって受け入れられた子であり、神の許しによって、義とされて新しいいのちを与えられた者として、自分を知るようになることです。

イエスの十字架と復活について聖書はどのように書いているでしょうか。十字架について聖書は非常に細かく書いております。イエスが裏切られて捕らえられ、ピラトの尋問を受け、ゴルゴダの丘に引き立てられていく様子、十字架につけられて死んでいくまでの様子が事細かく書かれています。しかしイエスがどのように復活したかについて、四つの福音書ともに一切書かれておりません。書かれているのはイエスの復活ではなく、イエスの復活宣言であります。

 「天使たちは婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体を置いてあった場所を見なさい。それから急いで行って弟子たちにこう告げなさい.『あの方は死者の中から復活された。』そしてあなた方より先にガリラヤに行かれる。」(マタイ28章6〜7)

私たちはイエスがどのようにして死から甦ったかを知ることは出来ません。それはおそらく私たちの理解や知識を越えたこと、人間には想像もつかないことなのかも知れません。

弟子たちはイエスが捕らえられると、恐れをなして蜘蛛の子を散らすように一目さんに逃げて行きました。ガリラヤに逃げ帰ったのでしょう。ガリラヤは彼らの生まれ故郷であり、イエスに従って弟子になったところであり、イエスと一緒に活動したところであります。復活したイエスは弟子たちより先にガリラヤに行って、彼らを待ちうけて招いたと書かれております。イエスが弟子たちに出会ったのは、弟子たちの日常生活の中で、ガリラヤで普通の生活に戻った時に出会ったのであります。イエス・キリストは特別な容姿ではなく、エルサレムで十字架につけられる以前にガリラヤで説教し病人を癒し、奇跡を行っていたイエスです。

エマオ途上でイエスに出会った二人の弟子は、イエスと話し合いながら一緒に道を歩いていても、その方がイエスだとは気がつかなかったとルカ福音書は伝えております。ヨハネ福音書はこう書いています。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にカギをかけていた。そこへイエスが来て真ん中に立ち、『あなた方に平和があるように』と言われた。」

イエスは弟子たちの間に普段着で現れ、弟子たちに平安と祝福を与えたのであります。

かつてガリラヤで一緒に活動し、寝食を共にしていた弟子たちの中に、復活されたイエスは現れて、平安と祝福を与えております。イエスの弟子たちとは教会のもと、出発点であります。イエスはイエスの信仰の共同体である弟子たちの間に現れて、彼らを祝福したのであります。

教会はイエス・キリストを頭とする信仰の共同体であります。主イエス・キリストがその中にいて礼拝を導いて下さいと祈ります。同時に主イエスキリストが礼拝の中にいて、信仰と生活を導いて下さっていることを信じております。また、イエス・キリストは悩み苦しんでいる人たちのそばに寄り添って慰めを与え、希望を与えて下さいと願い祈り、多くの恵みを感謝します。そのイエス・キリストは目立った服装や特別な風貌をしていない、ごく普通の人の姿で、誰もその人がイエス・キリストであるか気づかないで、会堂の端に坐っている方かも知れませんし、病気で苦しんでいる人、汗と脂にまみれて働いている人、獄中にいる人、路上生活を余儀なくされている人かも知れません。

イエス様がいつ来て一緒に食事をされても良いように、いつも食卓の椅子を一つ空けているという家庭があるという事を聞きました。私たちはイエス・キリストが再び来て、この世界に神の支配が完成されることを願い祈ります。私たちが待ち望んでいるのは多くの病人を癒し、虐げられた人々の共となった人であり、五千人に食事を与えた人であり、山上の説教をして人々を励ましたイエス・キリストであります。そして同時に十字架につけられたままで私たちの罪を購って下さっている方であり、復活されて現れ、平安と祝福を与えてくれているイエス・キリストであります。復活のイエス・キリストは私たちの信仰の共同体である教会の中に今もなお十字架を背負っていらっしゃいます。

イギリスのアラン・リチャードソンという神学者は「キリストの復活は新しいイスラエルの救済史における出エジプトの出来事である」と述べております。出エジプトは旧約聖書の中心思想で、イスラエル宗教の確立と統一国家の基礎がこの出エジプトの出来事によって捉えられ、この出エジプトの神理解、自己理解がユダヤ民族、ユダヤ教を作り、更にキリスト教、イスラム教の元になった訳です。同様にイエス・キリストの復活は新しいイスラエルの救済史の決定的な出来事なのです。主イエスの復活は神ご自身の民を不安と拘束である奴隷状態から解放して、神の愛が永遠に支配する神の国に導く神の業なのであります。

私たちはこの季節に復活して弟子たちに現れた主を思い、私たちの信仰を新たにされたいと思うわけであります。

TOPへ