いのちの水を下さい

09.7.26

飯島 隆輔牧師

(早稲田教会副牧師)

ヨハネによる福音書4715 イエスとサマリアの女

サマリアの女が水をくみに来た。イエスは「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町へ行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また「水を飲ませてください」と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた乾く。しかし、わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

イエスがヤコブの井戸のそばに坐っていたのは正午頃であります。7節からイエスとサマリヤの女の対話がはじまります。

サマリヤの女が水瓶を抱えて水を汲みにきました。水くみは女性の仕事で、重い水を長い距離運ぶのは大変な重労働です。今でも、アフリカやアジアの貧しい国のでは遠くの水場から水を汲んで運びます。昼の時間帯は陽射しが強く暑いので、普通には水くみは朝か夕方の涼しいときに行いました。しかし、この女性は人目を避けて他の人が余り来ない昼に水を汲みにきました。イエスの弟子たちは町に食べ物を買いに出かけていて、そこにはイエスと女だけでした。イエスは 「水を飲ませて下さい」と女に頼みます。井戸は30メートルくらい深く、イエスには井戸から水を汲む手段がありませんでした。しかし、サマリヤの女は水を飲ませて欲しいとのイエスの頼みに応えずに「ユダヤ人のあなたがサマリヤの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言いました。(9節)

この頃、同じ民族でも男は外で女性に声を掛けることはしませんでしたし、ましてユダヤ人の男性が、軽蔑しているサマリヤ人の女性に声を掛けることなどはあり得ないことなのです。ユダヤ人はサマリヤ人をイスラエル人とは認めず軽蔑していましたし、サマリヤ人もユダヤ人に反発していました。

しかし、イエスは当時の社会のしきたり・慣習を破ってサマリヤの女に話しかけます。サマリヤの女は、目の前でのどが渇いていて水が欲しいという人の要望にすぐ応えようとせずにイエスに逆に質問をします。

ユダヤ人のあなたがサマリヤの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と。イエスはこれに応えて、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませて下さい』」と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」(10節)と言います。

「神の賜物」とは人間にとって必要な水、単に肉体的な生理的な渇きをいやすだけでなく,その全存在の渇きをいやす「生きたいのちの水」と理解することができます。イエスは「もしあなたが《生きることの意味を与え、全存在の渇きをいやすことができる生きたいのち》の水のことを知っていて、『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるかを知っていたならば」「あなたの方からその人に頼んで、その人はあなたに生きたいのちの水を与えたでしょう」ということになります。

この物語の最初はイエスが水を欲しいと願い、サマリヤの女がそれを与えるという筋書きだったのが、それが逆転しまして、サマリヤの女がイエスに生ける水を願い求め、イエスが女に水を与えるというように、主客の立場が逆転します。サマリヤの女は、イエスを信頼せずにこう質問します。 女は言った。「主よ、あなたは汲むものをお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水をお手にお入れになるのですか。 あなたは私たちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え、彼自身も、その子どもや家畜も,この井戸から水を飲んだのです。」 サマリヤの女はイエスを疑います。

自分で飲む水を汲むことができないで、他人に水を汲んで飲ませて欲しいとの頼むような人が、どのようにして生きた水を持ってくることができるのでしょうか。」彼女はそう思い、イエスに問いかけます。彼女は、ユダヤ人であるこの男が他のユダヤ人と同じようにサマリヤ人に対して優越意識を持っており、サマリヤ人が誇りとしている聖なる井戸を過小に評価しているのではないだろうか、サマリヤ人の祖先である族長ヤコブを見くびっているのではないだろうか。この井戸はヤコブが苦労して掘った井戸であり、ここに住むサマリヤの全家族、子ども、家畜までが何百年もの間、この泉から湧き出る水によって生きながらえてきた大切な井戸ではないか。ところがこのユダヤ人の男の言葉は、まるで自分の言葉から生きた水が流れ出てくるような言い方ではないか。サマリヤの女はイエスの言葉が信用できず、疑ったのであります。

あなたは私たちの父ヤコブよりも偉いのですか。そんなはずはないでしょう。

ここでイエスは彼の使命について、またイエスが何ものであるかについて明確に宣言しております。

13節 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

ヤコブの井戸から直接汲まれる水は、目に見える水です。その水はその時はのどを潤したとしましても、また何時間かすればのどが渇いてしまいます。イエスは「この水を飲む者はだれでもまた渇く」と言ってそのことを指摘しています。

それとは異なりイエスの賜物は女が本当に必要としているものであります。イエスご自身において常に新たな泉が湧き出し、私たちに与えられ、私たちを助け、内側から私たちを捕らえて新たにしてくれる水です。

イエスが与える水は目に見える外面的なものではなく、内面的なもので、その人の全存在を内側から作りかえて、その人の中で源泉となり、泉となる、そういう性質のものであります。

イエスが与える生きた水は永遠の命に至る水でその人の内に湧き出るということを示しております。

イエスの賜物である生きた水は古くならず、枯れることはなく、かえって新しくなり、常に新鮮であり続け、その力を保ち続けます。

このように、イエスはこのサマリヤの女に生きた水、永遠のいのちの与える者として、ご自分を現されました。イエスは、その渇きをいやし、生ける水を分かち与える者であると自分を表明するのであります。

 17節にサマリヤの女は5人の女がいたが今は別の男と連れ添っていると書かれています。彼女は人生の中で多くの苦難と悲しみにあい、心の中に悩みを抱え、悲しみを持ち、人には言えない罪を持っていて、人目を避けて生きてきました。彼女はあらゆる努力をしたあげく、孤独で、恥に満ちて、踏みにじられ、貧しく人目を避けて生活してきた孤独な人ではなかったでしょうか。彼女は渇いている者であり悩み疲れた者であり生ける水を必要としている渇いた人であったのではないでしょうか。

15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくていいように,その水をください。

日本は豊かで世界第二位の経済大国であるといわれますが自殺大国でもあります。テレビをつけるとお笑い番組と料理などの食べる事ばかり経済的には豊かなくにです。現在日本で飢え死にする人はほとんどいませんし、高齢社会で介護や医療、年金などいろいろな問題があっても一応整っております。不登校やいじめなどの問題があっても978パーセントは高校に入学します。しかし、毎年3万人以上の人が自殺しています。毎日九十人が自殺をしているということになります.

昨年は33093人です。3万人以上の自殺者が11年も続いています。日本は先進国では第一の自殺率でアメリカの二倍、イギリスの三倍と言われています。交通事故による死者は年々減少し、2008年が年間5155人ですから、自殺者はその6倍ということになります。貧しいとか豊かとかは自殺と全く関係ありません。貧しい国に自殺が多いということは聞いたことがありません。それでは自殺はなぜおこるのでしょうか。自殺を防ぐ方法はないのでしょうか。これは、日本の国家社会的問題です。自殺防止のために多くの人が一生懸命考え、努力していますが効果が上がらず、日本では毎年3万人以上の人が自殺をし、自殺未遂者はその数倍です。

 いのちの電話というボランティア組織があります。この活動はキリスト教精神をバックグラウンドにしてできた組織で、沢山の教会とクリスチャンが応援していますが、宣教伝道を目的にしておらずにキリスト教団体としては名乗っておりません。むしろ電話相談を通して《人に寄り添う》活動をしております。全国で7500人のボランティア相談員が電話相談を受けています。勿論、無料で、24時間、相談する方も相談員も匿名です。

全国50センターの受信件数は2002年以降毎年70万件以上を越えています。この数は実際に受診した電話で、かけてもかからない電話はこの数十倍あります。いのちの電話にかけてくる相談は様々です。病気が治らないという事の相談、多重債務など社会構造の問題、家族や会社、友人との人間関係、性(セックス)の悩みなど様々です。中には死にたいなど自殺をほのめかしたり、自殺の実行中であったりすることもあります。

このように電話相談が多いのも、自殺が多いのも私達の社会に原因があるように思います。社会が生きづらく、不安であり、信頼する人、相談する人がいない、寂しいなど、精神的に異常で病的な状況になっていると思います。家庭や地域社会など人と人を繋ぐ共同体が崩壊し、愛と信頼の絆の最小の単位である家族、家庭がバラバラになり、こころの安らぐところがなくなってしまった。人を見たら泥棒と思え、知らない人の声を掛けられたら返事をするなと学校で教えられるそうです。企業は人を利益を得るための道具として、利用できるだけ利用して、要らなくなれば捨ててしまう、人格も尊厳もない、利益を生む人間だけが価値があるという社会です。派遣労働者法などはその考えを正当化するものです。今、私達の社会、家族は信頼関係がバラバラです。一人ひとりが孤立し、孤独です。まじめな人、純粋な人ほどノイローゼになり、誠実に考える人、一所懸命やる人は鬱になるような社会ではないでしょうか。自分は社会にとって、家族にとって何なのか、自分の存在意味、アイデンティティー確認できず、自分の居場所を見出せない、孤独な人が多いのではないでしょうか。自分が社会や人々のために何も役にたっていない、存在の意味を見出せないとき、人は孤独になり、自殺するのではないでしょうか。逆に、自分が誰かに期待されている、役にたっている、生きている意味がある人が認め、自分が確認出来たとき、その人は生きているといえるのではないでしょうか。

イエスはサマリヤの女性に対して「あなたを救ってあげよう」とか「わたしがあなたに水をあげよう」とは言っていません。むしろ彼女に「わたしに水を飲ませてください」と言っております。イエスは自分が渇いている者、自分が彼女に憐れみを得なければならない者として行動しております。サマリヤのこの女性は人間関係に破れ、自分を価値のない人間、不要な役に立たない人間と思っていたのではないでしょうか。彼女は人間に対する信頼と愛を失っていました。彼女は人を愛することだけでなく、自分が他の人から愛されてるとはもはや考えておりませんでした。彼女は挫折を繰り返してきた女性であります。自信を失い、人目を避けて生きてきた女性であったかもしれません。

イエスは彼女に水を飲ませてくださいと声を掛けました。水を飲ませてくださいと声を掛けられることにより、彼女は人格として隣人に愛を与えることができる者として期待されているのであります。隣人に、他の人に水を汲んで与えるという、そういう者として信頼され、期待されております。人から信頼され、期待されるということは彼女にとって久しく忘れていた経験であります。今、自分の助けを必要としている人、そういう隣人がいるということに彼女は遭遇したのであります。そういう姿でイエスが彼女に接してきた時、彼女には新しく立ち直る機会が与えられたのであります。もう一度他者を愛する、隣人を愛するという機会を提供され、イエスを受け入れたとき、彼女は永遠の命に至る生きた水を与えられたのではないでしょうか。イエス・キリストがサマリヤの女性に語りかけた言葉、行為、そしてイエス自身の存在が彼女を生き返らせたのであります。イエスご自身が生きた命の水であったのであります。このサマリヤの女性は、人目をはばかるように、他の人たちが水くみ来ない暑い昼の時間に水くみに来て、イエスに出会ったのであります。そして、いのちの水、渇かない水、永遠の命にいたる水をイエスから頂いたのであります。

サマリヤの女のそばにイエスが座られたように私達一人ひとりのそばにイエスがおり、私達一人ひとりに声を掛け、私達一人ひとりに信頼をよせて隣人と共に生きる事、イエスに従って生きる事を期待されている事を私達は信仰によって知る事ができるのです。そのイエスを受け入れることによって私たちもまたいのちの水を与えられている事を学びたいと思います。

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