そばに立つ

09.8.16

飯島 隆輔牧師

(早稲田教会副牧師)

ルカによる福音書102537 善いサマリア人

今日の聖書の箇所は、善きサマリヤ人のたとえの話であります。大変有名であり、クリスチャンでない人でも良く知っております。

このたとえ話の中で、イエスは私達に苦難に陥っている人に対して、助けの手を差しのべる事を勧めているのだと思います。困難にある人を助け支援することが隣人を愛すことであり、永遠のいのちを与えられることだと言ってのではないかと思います。

エルサレムは800メートルの高地にあり、エリコは海面下250メートルのところにあります。標高差1150メートル、約30キロの岩だらけのくねくね曲がったエリコ街道は当時、「追いはぎ」の出没するところとして恐れられていました。

 この道をある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中に追いはぎに襲われ、身ぐるみを剥ぎ取られ、殴りつけられ、半殺しにされて放置されていました。彼は必死に助けを求めました。そこをエルサレムの神殿の勤務を終えてエリコの自宅に向かう途中の祭司が通りかかります。祭司は道ばたに倒れている人を見ると、道の向こう側を通って行きました。気がつかないで通り過ぎたのではなく、その人を見て、その人を認知して、道の反対側を避けて行きました。レビ人も同じようにその人を見て見ぬ振りをして行きました。律法を熟知して神に仕え、隣人愛の規定を良く知っている彼らはその戒めを実行する事なく避けていきました。ところがロバを連れた商人風の一人サマリヤ人の男がそこを通りかかり、半殺しになったユダヤ人を介抱したのであります。34節に「ところが旅をしていたサマリヤ人は、そばに来るとその人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして」とあります。

彼はその人を見ると立ち止まり、憐れに思って、近より、オリーブ油とぶどう酒を傷口に塗って包帯をして介抱したのです。そして、この不幸な人をロバに乗せ、宿屋に連れて行って介抱し、宿賃20日分に相当する銀貨2枚を支払ったのであります。サマリヤ人と言うのは当時のユダヤ人にとりましては、最も憎むべき敵でありました。

このサマリヤ人の行動は、律法学者のいう戒めや律法に基づくものではありません。このサマリヤ人は隣人という概念の中にある民族という範囲を乗り越えています。このサマリヤ人は戒め・律法に基づいて行動したのではなく、サマリヤ人は戒めという先入観に囚われずにそこに倒れて困っている人を見たという出会いから行動したのであります。瀕死のこの人はこのサマリヤ人にとって決して死んだ人ではありません。サマリヤ人とこの人との出会いは、生きた人格との出会いでありました。サマリヤ人は彼の予定を変えて立ち止まり、危険を冒し、介抱し、回り道をして、さらに費用を負担します。身銭を切ってこの人を介抱します。このサマリヤ人の行動は、われわれの普通の常識からすれば限度を超えた愛の業ではないでしょうか。サマリヤ人は傷口に薬を塗って介抱しただけで善かったのではないか。またロバに乗せて宿屋に運んだだけで充分だったのではないか。20日分の大金をこの見知らぬ人のために支払う必要があったのでしょうか。このサマリヤ人の助けの中に、ありあまるほどの過剰な助けが示されていると思います。その過剰な助けこそは、神様が人間に対して与える愛の豊かさを示しているのではないでしょうか。

昨日は終戦記念日と呼ばれている特別な日で、私達は毎年8月を平和の月として平和を願い、祈る月としています。

広島と長崎に原爆が投下され多くの方が亡くなり、また多くの方が被爆されて現在も未だ問題が解決していません。アジア・太平洋戦争では一般人も含めて日本人260万人、アジアの国々で約2000万人の人が亡くなったといわれています。戦後の食糧難はひどく、しばらくして学校給食が始まりましたが給食はジャムを付けたコッペパン一個と脱脂粉乳のミルクで、コップの底には茶色の滓がいつも残りました。しかし腹がへって何でもおいしく食べました。

最近まで横須賀基督教社会館の館長をされながら戦後の日本のキリスト教社会福祉の指導者で阿部志郎先生はこの給食について次のように言っております。

「戦争が終わって食糧難の時代に米国から救援物資が送られてきました。これは『ララ物資』と呼ばれ、施設や学校に配給されました。これが日本に於ける学校給食の始まりとなりました。この「ララ」は米国の十三の団体で始めた日本に対する救済活動です。その中で主なものは、世界教会奉仕団と呼ばれるプロテスタント教会、カトリック教会、フレンド(クウェカー)の三つでした。日本での「ララ物資」事業の代表者はバットさんとフレンドのミス・ローズ、カトリックのフェルセッカー神父の三人でした。思います。」

いわばキリスト教の団体でした。クリスチャンが金を集め、物を集めて、私達の救済に当たってくれたのです。」「私が米国留学中に、ペンシルバニア高校へ行った時に、昼食時に先生も生徒も昼食をとりませんでした。どうしてかと尋ねると、週一回の食事分を「ララ」に寄付するからだ、という答えが返ってきて本当に頭を下げたい気持ちになったものです。「ララ」はアメリカの余剰物資が送られてきたものと思っていた私には、実に米国のクリスチャンたちの自己節制と犠牲が背景に隠されていたことを知り、大変に感銘を受けたのです。こうした働きはキリスト教の一つの表現であったかと思います。」

 私は阿部志郎先生の講演を聴き、戦後世代の多くの子どもたちが食料のない時代にこのララ物資によって空腹を満たし、栄養を補給されて成長することが出来た事を知りました。ララ物資がアメリカの余剰物資ではなく、アメリカの一般の高校の先生や生徒が週一回自分たちの食事を食べずに、食事を抜いて空腹を我慢してその分を献金し、そのお金によって日本の何十万何百万の子どもたちが何年間も必要な栄養を与えられて育ったのだと知り、強い感動と衝撃を受けました。今まで闘ってきた敵国、沢山の人たちを殺してきた戦争の敵国の子どもたちのために、自分の昼食を削ってまでしてその金を献金する、そんな事は自分の理屈では考えられない事でした。

今、北朝鮮の子どもたち、ビルマの子どもたち、バングラディシュのこどもたち、沢山の飢えた子どもたち、必要な栄養不足のために成長しない子どもたち、病気の子どもたち、栄養失調のために餓死していく子どもたちがおりますが、私達は彼らのために何を削っているのでしょうか。

イエスがサマリヤ人のたとえの話を語ったのは律法学者の質問への答えでした。

律法学者は「では、私の隣人とはだれですか」とイエスに尋ねます。これに対してイエスは応えずに善きサマリヤ人の話をします。もし「隣人とは○○である」と定義するなら、その定義に基づいて律法学者は、愛の対象を限定することができるのです。イエスのサマリヤ人のたとえ話は、律法学者の考えに矛盾するものでした。サマリヤ人にとっては、自分が道に倒れている人にとって「最も近くに立っている者」であり自分がその人の隣人であること認識したのです。倒れている人が私の隣人であり、どこを見渡しても、自分より以上にこの男に近く立つ者はいませんでした。

『隣人』という概念は、本来的には、つねに私が『他者のための』隣人なのです。問われているのは、隣人を定義する事ではなく、自らが隣人であることであります。現実においては、人は他者に近づいていくことによって、他者のそばに立つことによってはじめて『隣人となる』というべきではないでしょうか。

「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」というイエスの問に対して、律法学者は「その人を助けた人です」と答えます。

そして、イエスは「行ってあなたもおなじようにしない」と言います。この律法学者は、サマリヤ人と自分を同一視すること、サマリヤ人の行為を自分でも取り上げる事を求められているのです。

今、私達のいろいろの問題を抱えています。貧困と格差の問題が非常に大きい事です。特に昨年の9月からの金融不況から世界的な経済不況になり、世界中が苦しんでいます。日本では非正規労働やの解雇、雇い止めが続き、雇用不安は窃盗、強盗、詐欺などの犯罪を増加させているようです。それにもまして、人々の精神状況は悪くなる一方で、自殺者は毎年三万人以上で増加傾向にあります。自殺する理由、原因ははっきりしないのですが、いのちの電話には様々な悩みや相談が寄せられます。毎月10日は自殺予防フリーダイヤルの日でこの日は無料で、相談ができます。自殺予防フリーダイヤルの電話が昨年一年間に受けた電話相談は29,462件でそのうちの三件に一件は自殺をほのめかす電話です。電話相談をしてきた半数が生活の問題、孤独を訴えています。それぞれが経済的に苦しく、或いは病気がちであったり、精神的な病気であったり、様々な悩み心配が重なって、そして心配や相談をじっくり聞いてくれる人がなくて孤独で、そして電話をかけてくるのです。

こんな痛い思い苦しい思いをするなら死んでしまった方が楽ではないか、自分は必要のない人間なのではないか、そういう思いが高じて自殺念慮が生ずるのではないかと思います。しかし、誰かに悩み苦しみを聞いてほしいと電話をかけてくるのではないかと思います。

私達クリスチャンはイエス・キリストによって罪が赦され、神の支配と神の愛が実現した事を信仰によって知り、またイエス・キリストの再臨によって神の国が完全になることを願っています。しかし神の支配はこの世界の秩序を隔離した形で、別の形態で来るのではなく、私達が今生きている社会に、この世の秩序の中に、この世の政治や支配を通して実現されるのです。従って私達クリスチャンは、他の人以上に政治や経済、社会の事に関心を持ち、関わり、責任を持たなければならないと思います。

8月は政治的選択の重大な時期です。私は政治を変え、教育に対する考え方が変わり、人間の尊厳ということが尊重され、一人ひとりの人間が人格として扱われる社会になることによって、平和と正義が実現し、平等が保証され、生きる希望が持てる社会を作ることによって、若者にも高齢者にも生きる希望がわき、隣人と共に生きる喜びを得、自殺は大幅に減ると思います。その解決の道を私達はイエス・キリストの信仰によって得ているのであります。

永遠のいのちを得るためには、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛して生きる事です。その隣人とは、隣人とは誰かとのではなく、自分が隣人になるという事であると言っているのではないでしょうか。         

TOPへ