恐れることはない。
ルカによる福音書5:1−11
0711.11
飯沢 忠牧師
(田園調布教会協力牧師)
私たちの毎日の生活において一生懸命努力したのに徒労に終わったと感じることがあります。
今朝の聖書のことばは一晩中、漁をしたけれども一匹の魚を捕ることもできないで疲れきっている漁師の話であります。そこへイエス・キリストがお出でになり、イエスについてくる群集を前にペトロの舟を借りて船の上から説教をするのです。説教が終わると主イエスはペトロに「沖へ漕ぎ出して網を降ろし漁をしなさい」と言われました。するとペトロは「先生わたしたちは夜どうし苦労しましたが何もとれませんでした」と口答えをするのです。私たちも同じような経験をすることがあります。ところがペトロは口答えをしただけで終りませんでした。この前の4章を見ますと、ペトロの姑が高熱で苦しんでいた時、主イエスに姑を癒していただいた経験をしていましたから、思い直して「しかしお言葉ですから網を降ろしてみましょう」と言って舟を沖へ漕ぎ出して網を降ろしたのです。すると魚の大群が網に入り大漁になったのです。ペトロはこの驚くべき出来事に直面して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と主イエスの御前にひれ伏すのです。ペトロはそれまでは、主イエスを「先生」と呼んでいました。ここでは「主よ」「神様」と呼んでいます。ペトロはこの時、主イエスのみ言葉に従って網を降ろした結果、起こったことに対して、そこに神のみ業を、神の臨在を見たのです。それと同時に自らの罪深さを知らされたのでありす。
神様は神ご自身を私たちにお示しになる時、何らかのかたちで「しるし」を行なわれます。それは思いがけない病気であるとか、災難であるとか、人間関係のことなど、とにかくその事柄が私たちにとって神様からの私たちに対するサインとなるのであります。
パウロはローマ人への手紙2:4に「神の憐れみがあなたを悔い改めに導く」と言っています。主イエスは奇蹟をもってペトロに「罪深い者」という道徳的目覚めで主イエスの御前にひれ伏すという霊的応答をさせました。ここにこの時の奇蹟の意味があります。
私たちは罪のない神ご自身が人となってこの世に来られ、十字架にかかるという出来事を通して示されたしるし、その十字架の意味を知らされますと、私たちはそこに神様の臨在に迫られるのです。キリストの十字架を通して神様の大きな愛が私に迫ってくる。そこで自分の罪深さに気付き恐れおののくのです。その時、語られるみ言葉は「恐れることはない」であります。
私たちが聖なる神の臨在を感じて恐れる時、「恐れることはない」と主イエスの恵み深いみ言葉が語られるのです。自分の力の限界に気付き、弱い者であることを知って恐れる時、恵み深い神様は私たちを暖かく迎えてくださるのです。それだけでなく神様のみ業を行なうために招かれるのであります。
「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」 ここでペトロの新しい人生が始まります。
さて、この箇所で語られている神様のメッセージは私たちに何を語っているのでしょうか。
第一に示されることは「努力しようとする精神」であります。ペトロは徹夜して働いてくたくたに疲れていましたが、主イエスの語られる言葉に従ってもう一度、挑戦したということであります。
多くの人は人生の敗北と思われる中で匙を投げてしまうのです。しかしペトロは「お言葉ですから、もう一度やってみましょう」と神の言葉に賭けて挑戦したのです。そして、そこに新しい道が開かれたのです。
第二は人間的な経験から見るとき、不可能としか思えない状況にあっても、チャンスは過ぎ去ったと思えるときもその不可能に賭けてみるということであります。
主イエスは「沖へ漕ぎ出して漁をしなさい」と私たちにみ声をかけてきてくださる方であります。
第三はものを見る目についてであります。主イエスはゲネサレの湖に魚の大群が泳いでいるのを神の目で捕らえておられました。
私は北海道出身の者ですが、「にしん」が獲れるときのことをこのように聞かされていました。漁師は「にしん雲」が出るとにしんがとれるとか、かもめが沢山飛んできているときがその時だと聞きました。
私たちは物事を見る目が鈍くなっているのではないでしょうか。自然から遠ざかって文明によって作られたものに囲まれて生きていると感覚が鈍くなってしまい、真にあるべき価値を見失っているのではないでしょうか。
山崎パンという会社の社長は労働争議で非常に困難な立場に立たされた時に、教会に足を運び、み言葉を聞き、もう一度挑戦してみようと決意、ストを指導していた連中との熱心な話し合いを続け、問題解決の糸口を見出して再出発しました。その後、新大久保にある淀橋教会の建て替え時に、その土地をかりて本社を建てました。また自分(社長)の住む家の隣に、立派なパイプオルガンを備えた教会を建て神様への奉仕をしています。まさに不可能に挑戦する姿がみてとれ、先ほどのペテロの魚の話と重なります。
ジェームス・ワットはやかんから立ち上がる湯気を見て蒸気エンジンを考えつきました。ニュートンはリンゴが木から落ちるのを見て引力の法則を考えました。松下幸之助は田舎から大阪に来て電車を見て、これからの時代は「電気の時代だ」と感じてナショナル電器に生涯を賭けた人であります。
物事を見る目を備えた人にとってこの世界は不思議な現象に満ちているのであります。
今日ほど先の見通しのきかない、不透明な時代はないと言われています。私たちはその中で生きています。そうであればこそ「時の徴」を素早く見る目をもち、神様のみ業に役立つ者となりたいと思います。
今朝のゲネサレの湖畔で起こった出来事は、私たちに様々なことを示唆しています。私たちはただ一度限りの人生で神様の前に立ち続けている者ですが、そのことに気づかないでいます。しかしある時、目が見開かれて自分が聖なる方の前にいることをペトロのように気付くことがあります。その時、「私は罪深い者です」と告白せざるを得なくなるのです。聖書は死後の世界において、すべての事が明らかにされると告げています。そうであるならば、私たちの一日一日が貴重なものになってきます。ガンの告知をされた人がこれに似た経験をすると、よく耳にします。
私たちは神様から大切な仕事をするようにと、召されていることに気付かなければなりません。主イエスは私たちにも「人間をとる漁師になるのだ」と仰せになっているのです。これは隣り人に伝道をするということであります。神のみ心は、ヨハネが語っているように「一人も滅びないで永遠のいのちを得るためである」とあるからです。
ペトロは自らの罪を知って主のみ前にひれ伏した、これは礼拝であります。
私たちは礼拝毎に罪を懺悔し、罪の赦しといのちのみ言葉をいただいて、勇気と希望をいただき力強く歩む者でありたいと願う者であります。