人生を導く神

(ヨセフ物語 完)

創世記45:1-15

07.9.9

飯沢 忠牧師

この証言で3回にわたってヨセフ物語を学んできました。今朝の箇所はヨセフ物語のクライマックスです。それは兄たちのねたみによってエジプト人へ奴隷として売られ、久しぶりに兄たちと再会する場面です。ヨセフはエジプト人の宮廷において飢饉のためにはるばると食料を求めてきた兄たちと再会し、親しく話をするために側近を別室に退かせ、通訳なしでヘブル語で話をします。(45:1-3

「ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。ヨセフは声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。ヨセフは兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。

 ヨセフの今まで張りつめていた気持ちが、一度にくずれて彼は男泣きに泣いたのです。兄たちはエジプトの総理大臣が弟ヨセフとは想像もしなかった。兄たちはエジプトへ食料を求めて長い旅をしているとき、かつてヨセフをエジプトへ行く商人に売ったことを思い出し、ヨセフは、今頃どこで何をしているのか、兄たちは自分たちのしたことに良心の痛みを感じていたことでありましょう。それが今、ヨセフが目の前にいる。パロ王から全責任をまかされているとは。兄たちの驚きはどんなに大きなものであったか。私たちにも想像できます。ヨセフはこのとき、即座に「お父さんはまだ生きておられますか」と父の安否を問いました。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか」、ここに彼の親思いの姿が見られます。一方、兄たちは驚いて口も聞けなかった。彼らは恐れた。それはヨセフを殺そうと井戸から投げ入れたことがあったからです。兄たちが恐れたのはヨセフの復讐です。彼らはヨセフに殺されるのではないかと不安にかられたことでしょう。

兄たちの驚きと恐れに対して、ヨセフの語った言葉は(45:4-5)「ヨセフは兄弟たちに言った。

「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」あなたがたは私を奴隷としてエジプトへ売った。しかし、このことの背後には神のみ心があったと三回も語っています。

 ヨセフは兄たちに向かって自分は決して復讐などしない、そのことを兄たちに納得させるために「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と語っています。

 ヨセフは今までの不当な苦難をこのように受け止めているのです。この受け止め方を「摂理の信仰」と言います。摂理の信仰とは、人が悪意でしたことすら、神はこれを良きことのために用いられるという信仰です。神はいつも人間の行う良い事も悪い事も用いて、神の善意だけをなさる神であります。ヨセフの今までの歩みを見ると最悪の条件が重なりすぎていました。

それにもかかわらず、神はヨセフの悪条件を克服して、その条件を用いて神のご計画を実行されたのです。どんな逆境であっても、どんな苦境に立たされてもその中に神のみ手をみることのできる人は幸いであります。ヨセフはたび重なる苦境にも信仰によって神が共にいますことを信じて歩んだ人であります。兄たちと再会したときも「私をエジプトへ売ったことを嘆くことも悔やむ必要はありません。神はわたしたちの命を救うためにあなたがたより先にわたしをここに遣わされたのです」、このように物事を見ることのできたのは、ただ信仰の目によるものです。

 45:15)「ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄たちと語り合った。

ヨセフは自分をねたみ、憎しみ殺そうとした兄たちを赦した。そればかりか彼らを愛した。このヨセフの姿はイエス・キリストのひな型であります。

ヨセフのこの言葉と態度によって兄たちは、ヨセフが自分たちの犯した過ちを赦し、忘れていることを確信したのです。何のこだわりもしこりも残さない「和解」は何と美しいものでしょうか。私たちも心の中に恨みを持っていることがあるならば、ヨセフのように寛大な心を信仰によって持つものとされたいものであります。

 私たちはそれぞれ様々な問題を抱えて生きています。その中で感じることは、自分に危害を加えた人を赦せないということです。

人間のどうすることもできない罪の根を滅するために神は、その独り子をこの世に遣わし、愛する弟子たちの裏切りと神に仕える祭司たちと律法学者たちのねたみの故に、十字架につけられ殺されました。しかし神は人間の犯した悪しき行いをも用いて私たち人間のどうすることのできない罪を罪なき神の子キリストに負わせ、私たちが代わってキリストを十字架上で徹底的に罰し呪うことによって私たちの罪を赦し、私たちを永遠の滅びから救って下さったのです。このことは決してユダヤや律法学者、祭司の功績ではありません。ヨセフをエジプトへ売った兄たちの功績によってヤコブの一族が飢餓から救われたということでもありません。神は私たち人間の弱さと罪の破れをも用いて救い給う神であります。神さまはこういう形でア

ダム以来、アブラハム、イサク、ヤコブをとおして神の祝福の約束を、即ち救いの約束を貫いておられる恵みの神であります。私たちは主イエス・キリストのご生涯とキリストを遣わし給うた父なる神を信じるとき、たとい現実が人間の目から見てどんなに不可能に見えても、この世とその歴史を導き給う神は、私たちの人生を神の真実と愛をもって導き給う活ける神であることを知るのであります。

私たちもヨセフが信じた摂理の信仰をもったいかなる時も、恵みの神、主イエス・キリストの救いを信じて希望を失うことなく人生の嵐の中にも平安を与えられ、苦しみの中にも信仰による喜びを与えられ、生きる意味を見出して歩む者でありたい。

創世記を書いた時代はイスラエルを治めていたソロモン王政の直後で、イスラエルの国が北と南に分裂した時であるといわれています。宗教も道徳も混乱していた時代です。その中で創世記の著者は、なおも神は歴史を導く神であると信じてこの書を書いたのであります。

 私たちが今、生きている時代、そして今、自分が背負っている課題、現実がいかに暗く、不安に満ちたものであったものとしても、創世記の著者が信仰によって力強く生きている。そしてヨセフの人生を力強く証している。この信仰に私たちも励まされ、この信仰に立って歩む者でありたい。

 最後に兄たちは父のもとに帰ってヨセフのことを話しました。このとき、兄たちはヨセフのことをどのように語ったか、恐らく自分たちの犯した罪を告白せざる得なかったと思います。というのは、彼らは父にヨセフのことで嘘をついていたからです。

 私たちもこれと同じことを犯したことがあります。宗教改革者ルターが語っているように、私たちは自らが犯した罪を日々、告白して主イエス・キリストの十字架によってその罪をことごとく赦され、身も心も軽くされる者でありたい。

 ヤコブとその家族はヨセフによってエジプトに移住し、飢えから救われた。私たちは永遠の滅び、魂の死の危機からイエス・キリストによって救われている。この何ものにも代えがたい救いの恵みを常に感謝し、この恵みに生かされ、ヨセフのような歩みをしたい。その時、神の祝福は禍をも用いて私たちを最善に導き給う、パウロが言っていますように「全てが働いて益としてくださる」のであります。

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