キリストのために苦しむ

08.11.9

飯沢忠牧師

(田園調布教会協力牧師)

フィリピ1:27−30

ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。

 今朝、私たちに与えられたみ言葉は「苦しみ」であります。「サラダ日記」という本を書いた俵万智さんは新聞のコラムに、自分が結婚する相手として「二人となら苦労をしないだろうと思う人を選ぶか、この人となら苦労しようと思う人を選ぶか、自分は後者を選ぶ」と書いています。

 パウロは1:29に「あなたがたにはキリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」とあります。ここに、はっきりと「苦しみ」を「恵みとして神から与えられている」と言われています。

 私たちは私を苦しめている状況から、キリストの贖いによって救われて信仰生活に入った者です。このような信仰をもっている私たちに、苦しみが恵みとして与えられているということは、なかなか納得し難いことです。ここで苦しみが神からの恵みであるという教えを正しく理解することが求められています。

私たちの人生で苦しみはどうしても避けることの出来ないものです。その中にある私たちが「苦しみが恵みとして与えられている」 ここで言われている「苦しみ」とは何でしょうか。

 パウロの言葉を見ますと「キリストのために苦しむ」と語られています。この苦しみは自分の欲望や願いがかなえられなかったことから来る苦しみではありません。パウロは「キリストのために苦しむ」と述べています。これはキリストを信じることのゆえに生じる苦しみを語っているのです。

 この問題を具体的にみますと、パウロの時代のキリストのための苦しみには、迫害がありました。そのことを1:28に「反対者」と言っています。フィリピ教会の人々には「反対者」と言っています。フィリピ教会の人々には「反対者たちに脅されてたじろぐ」ということがありました。

 このことは、パウロの時代だけではなく、キリスト教の2000年の歴史の中で、同じようなことが繰り返し起こっています。代々の教会、キリスト者はこの苦しみの中を通って、今日の私たちにまで、キリストの福音をもたらしてくださったのです。

 私たちが信仰を貫こうとするとき、日本のような異教社会の中にあっては様々な苦労、信仰をもって他者と共に生きようとするときに起こる不都合なことに遭遇することがあります。これもキリストのために苦しむことに属することではないでしょうか。あるいは私たちの内面における信仰者としての苦しみ、これも同じであります。

 自分自身が信仰者としてふさわしくないと自らを裁く、この苦しみや痛み、家族の中でクリスチャンとして孤立している精神的な苦しみも「キリストのための苦しみ」に含まれています。

 私たちがキリストの僕として誠実に生きようとするとき、心と体に生じる苦しみがあります。これらの苦しみに、すべての者が耐えられるわけではありません。信じることをやめたら、どんなに楽だろう。このように考えてしまうことも、ないわけではありません。

 私は牧師としての50年あまりの中で、何度かゆきずまり途方に暮れて、この苦しみから逃げ出したいという思いになったことがあります。教会と関係なく過ごした方が、どんなに楽かしれない、そのように思うほど苦しんだことがあります。

 私たちは霊も肉も、心も弱い者であります。その苦しみを避ける道を選ぼうとする。これは苦しみに会ったときに、人間の本性が生み出す行為といってよいかも知れません。

 しかし、このような苦しみの中で、信仰に踏み留ませるものがあるとするならば、それは私たちの中から出てくるものだけではないと思います。苦しみの中での人間的な忍耐や努力だけではどうにもならない。これらのものによって信仰の苦しみに耐え抜くことはできないでしょう。

 そこに何かがあるとするならば、それは神の側からくるものによるほかりません。パウロがここで述べていることは、キリストのために苦しむことも、神からの恵みとして与えられているのだ、ということを知ること、この認識によって苦しみに中で信仰に踏み留ませる力を神から与えられるのです。

神から与えて下さるこの信仰が苦しみの中であるならば、その苦しみに耐えうることのできる力も神が与えて下さる。この信仰が共に苦しみの中でもなお信仰者として歩み続けようとさせるのです。

 このようにして、キリストのために苦しむことは、キリストご自身が私のために十字架上で苦しんでくださった苦しみを知る機会にもなるのです。

 キリストのための苦しみを味わうことによって、苦しみ給う主イエス・キリストとの交わりに深く引き入れられ、キリストとの結びつきが、より一層強くされるのです。そのとき、苦しみが恵みとして神から与えられたものとなるのです。このような苦しみが神から与えられているのだと、パウロはここに述べようとしているのです。

 苦しいことと辛いこと、その中でキリストが私たちのために共に苦しんでくださったこと、私のために自らの命を献げて救いを成し遂げてくださったことを見出すことができるならばその苦しみを乗り越えて、キリストの恵みが私たちを包んでくだるのです。

 詩篇119:71〜口語訳では「共に苦しみにあったことはわたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」とあります。苦しみによって私たちの信仰が鍛えられて、神のみこころに従おうとする信仰へと成長していくのです。

 神のみこころが何であるかを、苦しみの中でより正しく知る者となるのです。そういう喜びと感謝が私たちの魂の奥底から湧き上がってくるのです。

 このような苦しみの体験を通して、人の苦しみや悲しみに鋭敏になっていく。今、世界や日本で起こっている多くの人々の苦しみに心を痛め、私にできることはないかと思いめぐらす人になる。その中で、何か役に立つことがあるならば、それを行ってみることも意義あることであります。また信仰の戦いをしている主にある兄弟たちの戦いや苦しみに対しても敏感になっていくのです。

 苦しみの叫びを神にのみ向ける信仰者へと造り上げられていく。このとこ、流す涙を主はぬぐい取ってくださる神からのみの慰めを与えられる者となるのです。

 艱難は忍耐を生み出していくことは、苦しみの中で真に頼るべきお方はキリストのみである。この信仰が苦難によってますます強められていくのです。

 フィリピの教会の人々は様々な苦難にあっていました。パウロはそのことを牢獄の中で、キリストのみに依り頼もうとする信仰を養うために、その苦しみは神からの恵みなのだと教えているのです。

 今日の私たちも同じように信仰のゆえの苦しみを避けることはできません。今は直接的な迫害はないかもしれません。しかし、信仰者として歩もうとするとき、様々な困難に遭遇し苦しめに耐えていかなければなりません。この苦しみはサタンの業ではなく、私たちをキリストにより強く結びつけようとする、神の恵みの業なのです。このように受け止め、共に苦しみに耐え、苦しみを担っていく歩みを共に続けていく者でありたいと願います。

 第二次世界大戦の時、ヒットラーがユダヤ人を迫害し600万人あまりの人がアウシュヴィッツのガス室で殺されているとき、一人の男が脱走しました。このようなことを再び起こさせないために、見せしめとして収容所全員が広場に集められ、その中から10人の者が選び出され、殺されることになりました。選び出された一人の男は「自分には妻や子どもがいるのです」と泣き叫ぶと、コルベ神父は前に進み出て「この人の代わりに私を殺してほしい」と申し出ました。そしてコルベ神父は殺されました。コルベ神父の死は、その後、全世界の人々に伝えられ、多くのキリスト者の励ましとなりました。

 私たちも全人類の救い主、主イエス・キリストの十字架の救いを宣べ伝えることによって、多くの人々が苦しみと罪と死から救われて、真の愛と平和に満ちた世の中になるように「キリストのために苦しむ」生活を少しでも、自分のものとして行うことができるようにと願う者であります。

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