信仰による喜びと希望

フィリピの信徒への手紙1:1-6

08.5.4

飯沢 忠牧師(田園調布教会協力牧師)

 本日からフィリピの信徒への手紙を学んでいきたいと思います。

この手紙は先ほど読んでいただきました1章1節に書かれているように、パウロとテモテからフィリピの教会員に宛てて書かれたものであります。

フィリピの教会はパウロの第2回目の伝道旅行の折、ヨーロッパで最初に設立された教会であります。フィリピはギリシャの北部にあるマケドニア地方の有力な都市であります。フィリピでのパウロの伝道の様子は、使徒言行録の161115節に書かれています。パウロはそこで紫布の商人で神をあがめるという意味の名前のリデイアという婦人に会い、この人に伝道しました。その結果、彼女と家族の者が洗礼を受け、家族をあげてパウロの伝道に協力したのであります。そしてフィリピの教会が誕生しました。

 パウロはやがてフィリピの教会を去って数年後にはローマで捉われの身となって牢獄から、この手紙を書き送ったのであります。この手紙は「喜びの手紙」と呼ばれてきました。それはこの手紙に喜びが貫かれているからです。また、この手紙はフィリピの教会の人々のパウロに対する「愛の心」と「愛の贈り物」から「愛の手紙」といわれています。

12節はパウロのフィリピの教会員への祝福を祈る挨拶のことばが書かれています。短い挨拶のことばの中に教会の本質的な特徴は何かを思い起こさせるものがあります。

「フィリピにいてキリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ」

「監督たちと奉仕者たち」とは今日の教会でいうならば、教職と役員、各部の委員たちということになります。教会の職務を担う人々がフィリピ教会に備わっていることが、このことばから知らされます。

教会に教職と役員、各部の委員の職務がなければ、教会の一致も教会の活動力も失ってしまいます。パウロは挨拶の冒頭においてすべての聖徒たちと教職と役員と委員たちに父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平和があるようにと祈っています。 ここに教会の本質的な特徴がみられます。

教会総会が終わり、新しい年度を迎えた今、主の教会に仕える決意を新たにしたいと思います。

3節「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に」「わたしの神に感謝し」このことばを噛み締めると心に響くものを感じないでしょうか。

私たちは信仰生活が習慣化し、すべての事が当たり前になりますと「わたしの神に感謝し」のことばが心にジーンとこなくなっている自分に気がつかないでしょうか。

すべてのことが当たり前で「感謝」することがなくなっています。かつ私は教会幼稚園の園長をしていたときに、卒園式で「あんなこと、こんなことあったでしょう」と歌う親、卒園していく子供も目を潤ませて歌っているのを見ました。

パウロは暗い牢獄の中にあっても、フィリピの教会員の一人ひとりのことを思い、神に「感謝」をしています。私たちも朝目覚めたとき、今日も神様から新しい日を与えられたことを神に感謝する。

そこから一日の歩みが始まる。もしも朝、目を覚ましても何の望みもない生きる意欲も元気もないとするならば、その人の一日はどうなるでしょうか。

 パウロはこの手紙の最初に「父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和があるようにと挨拶し、次に語ったことばは「感謝」でありました。感謝は気分によるものではありません。感謝することを知っているから感謝するのであります。感謝というものが、たとえ悲しいことがあっても、感謝は無くならないものであります。

その感謝をパウロは「わたしの神に感謝し」と書いています。「わたしの神」とはどういう神なのでしょうか。それは、私たちを愛して下さり、私たちのために命まで捨てて下さった神様であります。この神様は私たちの生活の中に、たとえ「ありがたい」と思えないことが起こったとしても「感謝」となる神様であります。

 旧約聖書のヨブ記に、ヨブは7人の息子と3人の娘に恵まれ、その他に多くの使用人と羊やラクダ、牛が沢山いる恵まれた生活をしていました。ところが、ある日ヨブに試練が起こり、シエバ人が襲ってきて、羊やラクダ、牛など1万匹が略奪されるのです。その後、台風で家が倒れ、10人の子共全員が亡くなります。そのとき、ヨブは何と言ったか。

 「主は与え 主は奪う 主のみ名はほめたたえられよ」 ヨブは神を非難することなく罪を犯さなかった、と書かれています。ヨブの信仰はあまりにも私たちの姿とかけ離れていて、とうてい自分には当てはめることは出来ないかも知れません。 私はこの度、知人の病気見舞いのためオランダに行く機会がありました。その時、アンネ・フランクの隠れ家を訪れることができました。

多くの方がご存知と思いますが、ヒットラーの率いるナチス・ドイツによってユダヤ人絶滅計画が実施され、第二次世界大戦が終るまでに600万人のユダヤ人が虐殺されました。その犠牲になった少女、アンネ・フランクがドイツからオランダに逃げた一家が2年余り隠れた住居です。道にはアンネの銅像が立ち、多くの人が訪れ、入るために長い列ができていました。13歳から15歳になるまでのアンネは、息をひそめて隠れて住む中で日記を綴り、その後、

密告により捕らえられ、アウシュヴィッツに送られて死にました。奇跡的に助かった父親が「アンネの日記」を出版し、世界中で読まれてきました。

 はかり知れない人間の罪の恐ろしさ、どうしてこんな大虐殺が行われたのか。その隠れ家の中を歩きながら、考える時を与えられました。

 600万人の一人一人にはそれぞれの生活がありました。ヒットラーの暴走を誰も止めることができなくなった時、命を賭けて阻止しようとした人がいました。その中に若い牧師であるボンヘッファーもいたのです。そのヒットラー暗殺計画は失敗し、彼は死刑となります。牢獄から処刑場に向かう時、同室の囚人たちに「皆さん、私の死を悲しまないでください。私は明日へ向かって行くのです」と語ったというのです。

 人間的には失敗と絶望と思える中でも、彼には希望があったのです。その希望とはイエス・キリストの十字架による救いと永遠の生命の約束を与えられている喜びと希望なのです。

 アウシュヴィッツ収容所に連れて行かれ、逃亡者の見せしめとして10人の人が処刑されるために選び出されたとき、一人の人は死にたくないと泣き叫んだ。その人の身代わりとなって死んでいったコルベ神父のことを、皆さんはご存知でしょう。

どうしてそのようなことができたのでしょう。それは、私たちが常日頃、体験している喜びや希望をはるかに超えた喜びと希望が生きていたからではないでしょうか。

 4節「あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」

私たちはある人を思うたびに「いつも喜びをもって祈る」ことができるでしょうか。どうしても好きになれない、赦せない人がいます。そのような状況の中にあっても、感謝して祈れるのは5節のみことばにあります。「それは、あなたがたが最初から今日まで、福音にあずかっているからです。」

「福音にあずかっている」とは、お互いにキリストの御身体と御血潮にあずかっている「罪の赦しと救いに入れられている」ということであります。神様は私たちにいろいろな良いものを与えて下さっていますが、その中で変わることのないものは、「イエス・キリストの福音」「キリストの救い」だけなのです。

 パウロが喜びをもって祈っている人の中には、困難の中にある人もいるでしょう。その中でパウロが祈るとき、「憂いと悲しみ」の中にある人を覚えていながら、なおも「喜び」をもって祈る、それはなぜでしょうか。神様がどんなときにも共にいてくださると確信しているからであります。詩篇23:1-4に「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。

主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭 あなたの杖 それがわたしを 力づける」 6に「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」とあります。

 もう一度5節をみましょう。「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、これはフィリピの教会員たちが如何なる困難な中にあっても信仰を捨てないで「イエス・キリストの十字架の福音」 救いにあずかっていたからであります。

最後に6節「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」

 「善い業」とは「イエス・キリストの救い」のことであります。私たちを選び、救いに導いてくださった神様はヨハネ黙示録22:13にある「わたしはアルファでありオメガである、最初の者にして最後の者、初めであり終わりである」と仰せになる神であります。私たちは信仰の弱い者です。自分の力や努力で信仰を全うすることはできません。

私たちが信仰を始めさせてくださった神様の力によるしかありません。私たちの信仰は途中で投げ出したり、やめてしまうこともあります。しかし、そのような弱い者でも主によりすがり、主を信じていくならば主の恵みに生かされて成長していくのです。

 私たちの命の目的は6節のみことばにあります。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」これは何という幸いなことでしょうか。

 パウロはこの手紙を暗い牢獄の中で書いているのです。パウロはこのような状況の中にあっても、神様が共にいてくださると確信し、その現実が如何に悲惨なものであり死を覚悟させられる中にあっても、私は一人ではないということを知っていました。

 パウロはローマの信徒への手紙828節にこう言っています。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

神様は私たちの人生を導く方であります。私たちは自分の人生を導いてくださる方を知っています。

神様はこの私を選び、私の内にみ業を始められ、イエス・キリストを信ずる信仰を与えて下さいました。

この神様は必ず、そのみ業を完成される、この確信を挨拶の後に先ず書いているのです。

 フリードリッヒという人は「神はご自身のみ手の業を放棄されるようなことは決してなさらない」と言っています。私たちはこの希望をもって歩んで行きましょう。

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