共に恵みにあずかる者

08.6.8

フィリピ書1:3−8

飯沢 忠牧師

 私たちは母の胎内から生まれ出た日から、母の愛をはじめ多くの人々の愛によって育てられてきた者であります。
自分が愛されているという中で私たちは、成長してきた者であります。自分が愛されているという認識は、心理学者が言っているように人間形成上、最も大切なことであります。しかし私たちはいつまでも愛されていくものではありません。

「愛されている」ということを土台にして「愛する人」へとなっていくのです。しかし私たちは、自己中心なわがままな者ですから、自分の好きな人とか、自分の思うようになってくれる人が好きになれても、自分を批判する人をなかなか愛せないものであります。よく熱烈な恋愛をした人が結婚していつの間にかお互いに憎み合うようになることがあります。

 このことは友人との間においても、親子の間にも起こることであります。広くは民族と民族の間で、国と国との間で争いとなっています。そこで私たちは「どうしたら人を愛することができるか」という問題にぶつかります。これはなかなかむずかしい問題であります。私たちは、このような現実の中でせいぜい相手を傷つけない配慮はしています。

 フィリピの信徒への手紙の特徴は「愛し方について語っている手紙」とも言われています。パウロはフィリピの教会員のことを思い出すごとに「神に感謝している」彼らのために「祈っている」「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までその業を成し遂げてくださるとわたしは確信しています」と言っている。これらの感謝と祈りと信頼はパウロのフィリピ教会の人々に対する愛し方であります。

 パウロは愛し方の結論のように8節に「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証してくださいます。」と言っています。口語訳聖書では「わたしがキリスト・イエスの熱愛をもってどんなに深くあなたがた一同を思っていることが、それを照明してくださった方は神である」とあります。

 私たちは人から愛されたい、人を愛する人になりたいという愛に飢えている者であります。人間関係の問題の中で、パウロが語っている熱愛をもって人を愛する愛を神様からいただきたいと心から願いつつ歩んでいる者であります。

 聖書は「人間の愛」についていくつかの違った言葉で語っています。肉親の愛、友人の愛、夫婦の愛、男女の愛、隣人愛などであります。これらの愛はフィリアの愛とかエロース愛とのいうことばを用いています。私たちの愛はからだだけのエロースの愛があります。気持ちだけの愛もあります。口先だけの愛もあります。肉親だけにしか通じない愛もありますし、友達との間だけにしか通じない友情の愛、フィリアの愛があります。

 これらのいろいろな愛の中で「ほんとうの愛」とはどういう愛なのでしょうか。聖書が私たちに告げている「ほんとうの愛」はわがままな、自己中心な愛を捨てたアガペーの愛に生きることを求めています。それを「キリスト・イエスの愛の心」と語っています。キリスト・イエスの愛とは、私たち人間の犯す自己中心なあらゆる過ちから、私たちを救い出すために人間の犯す罪を背負い、私たちに代わって神の裁きと神の呪いを受けてくださった。それがキリスト・イエスの愛、キリストの十字架の死による贖罪愛であります。

 パウロはそのことを「キリスト・イエスの愛の心」と言っています。ここで使われている「心」という言葉の意味は心臓や肝臓を意味しています。またこの言葉は感情や怒り、ねたみ、あわれみを意味しています。パウロが8節で「わたしがキリスト・イエスの愛の心で・・・」と言っているのはある聖書学者の解釈によりますと、パウロの心臓の鼓動とキリストの心臓の鼓動が一つとなって響いているようなことだ。キリストの脈とパウロの脈が相打つことだと言っています。

 先ほども申しましたように口語訳では「キリスト・イエスの熱愛」と訳しています。この熱愛の言葉の本当の意味は「人間のはらわた」「はらわたをかきむしるような愛」という意味であります。私はこの言葉から犬養道子さんが「人間の大地」の中で語っている話を思い起こします。ご存知の方もおられると思いますが、それは共産主義の支配下におかれたベトナムから脱出したボートピープルの話であります。

 脱出した人々の乗った舟は何日も何日も海上をさまよいます。やがて食べ物もなくなり、飢え乾いた人々は海水と舟の木をかじって飢えをしのぐのです。たまに飛び込んでくる魚を食べることもありました。そのうちある父親が自分の腹をかき割き、腸を取り出して自分の子どもに「これを食べて生きなさい」と言い残して死んでいくのです。

 キリスト・イエスの私たちに対する愛は、ご自分の肉を十字架上で裂き、血を流し、その死をもって私たちを愛してくださった愛であります。

 私たちは毎月第一聖日に「聖餐」にあずかります。そこで主イエスは「取って食せよ、これはわたしのからだである。取りて飲め、これおはあなたがたのために流すわたしの血である」と仰せになられたことを覚えてパンとぶどう酒をいただきます。このようにしてパウロが7節に言っている「共に恵みにあずかる者」とされています。

 私はこの共に恵みにあずかる者となった一つの出来事を体験しました。それは1971年の4月、学園紛争中の札幌にある北星学園女子高等学校の宗教主任に就任した時のことであります。このときはご存知のように全国の各地で学園紛争が起こっていた時であります。

 私はキリスト教学校の生命である礼拝と聖書の授業を主の御助けを切に祈り求めつつ、与えられた職務に勤めました。毎朝、講堂で900人あまりの女子高校生と礼拝を共にし、宗教主任室に帰ってくると、自治会の委員長と委員たちが来て、なぜ宗教心のない私たちに礼拝をさせるのかと抗議してきました。私はこの学校の根本精神であるこれをやめる分けにはいかないと答え続けました。高校3年生の聖書の授業に行き、教室のドアの前で主の助けを祈ってから教室に入りました。生徒たちは聖書の授業に反発しました。その中で生徒と一緒に宗教とは何か、人間とは何か、生きるとは何か、人生の問題を考え、話し合う授業にしました。

 そのような中で自治会の委員長をしている彼女が「私は過保護を憎む」ということを言いました。彼女はあまりにも恵まれすぎたなかで、そのような言葉をふと語ったのです。その後、この生徒は教会に行き、洗礼を受け、卒業後は夜間の保育専門学校に行き、保育者となりました。

 学園紛争の先頭に立っていた生徒がパウロがここで語っている「共に恵みにあずかっている者」に加えられたのです。神の御名はほむべきかなであります。

 私たちはパウロが言っているように「時が良くても悪くても」キリスト・イエスの熱愛、十字架の福音を宣べ伝えなければなりません。そして「共に恵みにあずかる者」が増し加えられるように、小さな愛の業に励む者でありたいと願う者であります。そうでなければ今、日本で、世界中で起こっているさまざまな問題の救いはないと思うからであります。

 「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(6節)

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