苦難が恵みになるように

08.8.10

飯沢忠牧師(田園調布教会協力牧師)

フィリピの信徒への手紙1:12-18
わたしにとって、生きるとはキリストを生きること

兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったこと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕われているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕われているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げしらされているのですから、わたしをそれを喜んでいます。これからも喜びます。

 私が、この講壇で証言するときには、フィリピの信徒への手紙を学んでいますが、今朝のところから挨拶を終えて、いよいよ本文に入ります。

 1-12を見ますと、「わたしの身に起こったことが」とあります。これはどんなことでしょうか。この手紙はローマで書かれたと言われておりますが、そうであれば、パウロはエルサレムで捕らえられ、あやうく殺されるところをローマの兵士に救い出され、2年間、カイザリヤの牢獄につながれていました。

その間、たびたび取調べを受け、そして遂にローマの皇帝に上訴するために、カイザリヤからローマへ船で向かったのであります。その途中で暴風に襲われ、かろうじて助かりローマの都にたどりついたのであります。それ以来、フィリピの教会員はパウロの身を案じていました。挨拶のあとの本文で「兄弟たち、わたしの身に起こったことが」と書いているのは、このような背景があったからです。

 もう一度、12-14節を読みますと「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったこと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕われているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」とあります。パウロは自分が捕らえられたことによって、キリストの救いを伝道する「福音の前進」に役立ったことを喜んでほしいと言っているのです。

これはキリスト教独特の「摂理の信仰」であります。

 神様を信じていない人にとって、苦しみや不幸に出会うことは、大きな損失であり、このことによって暗い人生を歩むことになります。ある宗教では人の不幸を通して自分の宗教に勧誘します。それに対してキリスト教ではたとえ苦難や不幸に出会ったとしても、その中に神様の摂理が働いていると信じ、不幸の中にありながらも、ヨブが言っているように「わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(ヨブ1:10)と、パウロが捕らえられたことによってキリストの救いを伝道することに役立ったことを喜んでほしいと不幸をこのように受け止めているのです。

 これはこの世的にみると不思議なことです。神を信じていない人は、自分の思いに反することが起こると自分は不幸な運命の中にあると嘆き悲しみます。

 イエス・キリストを信じる者は、たとえ自分の身に不幸なことが起こっても、その背後に神様の暖かい愛の御手の中にあると信じているのです。

 捕われの身にあるパウロの心を明るくしたのもこのような摂理の信仰によるものでした。

 パウロのかねてからの願いは、キリストの救いを当時の世界の中心であるローマで伝達することでした。その願いが捕われの身とはいえ、かなえられたのです。

 監禁状態の中で、パウロはローマの教会員と交流ができ、時々見回りに来るローマの兵士にもキリストの救いについて語ることができたのです。このことは、ローマにはキリスト者にとっても大きな励ましであったことでしょう。

 14節「主に結ばれた兄弟たち」と呼びかけていますが、これはキリストを信じて洗礼を受けローマの教会員となっている人のことであります。彼らは監禁されているパウロを見舞い、そこでパウロの語る神の言葉に耳を傾け、信仰の指導を受け、信仰を強められ、今まで以上に熱心にキリストを宣べ伝える者になったとここに書かれています。

神様のみ業はこのようにして行われました。パウロはこのことについてローマの信徒への手紙828節において「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるよう、共に働くということを、わたしたちは知っています。」と書いています。

以前私は隣の中国の教会についてこのようなことを知りました。このたび、この教会の牧師に就任した薛恩峰先生の証言の中で、迫害の中でのお話を生々しくお話されましたがあえてもう一度、お話したいと思います。

今から56年前、1952年、昭和28年には中国の共産党による政策によって6000人の宣教師が中国を去りました。それと同時に、キリスト教主義の学校、病院、教団事務所もすべて政府によって接収されました。政府の方針に協力しない牧師や信徒は逮捕され、ある人は15年、23年と獄中生活をしました。そして今から30年前にこれらの人々は釈放されました。しかし1966年に文化革命が起こり前代未聞の迫害が起こりました。紅衛兵は信者の家を襲い、聖書や讃美歌、あらゆるキリスト教に関する本を没収し焼却しました。

そして中国は無宗教の国とされたのです。しかし、この時もキリスト者はひそかに集会を続けていたのです。1977年に毛沢東が亡くなると制限付で集会の許可がおり、その結果300の教会が政府の公認を受けました。それから今日、中国の教会は50倍に増加し、かつては84万人だった信者が、今では5000万人になったと推定されています。これは中国教会リサーチセンターの資料によるものです。最近、中国を訪問した日本聖書協会の渡部総主事の報告によると教会員1万人の教会に6000人が礼拝できる礼拝堂を見学してきたと726日のキリスト新聞で読みました。

この驚くべき出来事は今朝学んだフィリピの信徒への手紙1:14の「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕われているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」のみ言が実践されたからであります。

キリストのために捕らえられ苦難を受けたことがキリストの恵みとなり、信仰の成長となり教会の成長となったのであります。

次に15節「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。」、17節「他方は、自分の利益を求めて獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。」 聖書は清いことを書いているから聖書だと理解しておられる方がいるかも知れません。

しかし今、お読みになったところにありますように、聖書は決してきれいなことばかりを書いていません。聖書は耳障りの良くないこともありのまま書いています。

この箇所から教えられることは、キリストの救いを宣べ伝える人には誰一人として神様のみ言を語るのにふさわしい人はいないということです。

15キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。」、17節「他方は、自分の利益を求めて獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。」17節「他方は、自分の利益を求めて獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。」これがパウロが明らかにしている当時の教会の悲しい現実であります。私たちはどうでしょうか。パウロが指摘している「ねたみや争いの思い、自分の利益を求めている」面についてはどうでしょうか。パウロはこのような欠点の多い者をも神様はお用いになっていると言うことです。

 このことについては主の12弟子、アブラハムやダビデの生涯を見ても分かることです。

これらの人々は不信仰に陥り、過ちを犯してもその罪を懺悔して真実に生きた人たちであります。実はこの手紙を書いているパウロも、かつてはキリスト者を迫害していた人であります。キリストに反抗していた人たちです。ですからパウロは18節に「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げしらされているのですから、わたしをそれを喜んでいます。これからも喜びます。」と言っています。ここに「真実であれ」とあります。誰でも真実な生活をしたいと願っております。しかし、その真実がいつもぐらつきます。

 このような私たちに対して、神様は真実を貫いてくださいます。私たちは不真実でも神の真実に支えられて生きているのです。パウロは苦難の中にも「喜んでいます」と言っています。

 「喜び」はイエス・キリストによって取るにたりない私たちが赦され愛されている「感謝」から湧き出てくるものであります。

 この手紙を書いているパウロは、ローマの獄中にあります。その中で同僚の友から意地悪をされているというのです。

 17節に「獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。」 パウロはこのようにひどい目に会っている中でも「わたしは喜ばないわけにはいかない」と言っています。それはキリストの十字架の愛による救いの故です。

 私たちもどんな苦難の中にあっても、このようなパウロの寛大な愛の心、深い信仰に学ばなければなりません。

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