生きるにしても死ぬにしても

08.9.14

飯沢忠牧師

(田園調布教会協力牧師)

フィリピ1:2-21 

そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い希望しています。わたしにとって、生きるとはキリスとであり、死ぬことは利益なのです。

今朝与えられたみ言葉はフィリピの信徒への手紙120節〜21節のみ言葉であります。

この手紙を書いているパウロはローマの獄中にあり、いつ刑場に引き出されて処刑されるかわからない状況の中でこの手紙を書いています。今朝はこのような中でパウロが語る「生きるにも死ぬにも」という教えに学びたいと思います。

私が以前、読んだ本にこんな話があります。ある大学の女子大生がキャンパスクィーン、大学女王に選ばれました。このことは彼女はもとより両親も喜んでいました。ところが、そのあと彼女は交通事故に会い亡くなるのです。

彼女は死ぬ間際に母親にこう言うのです。「ママ、ママは私に大学を切り抜けられるように何でも教えてくれたね。カクテルグラスの持ち方など何もかも手ほどきしてくれたね。でもママから死に方についてだけ、教えてもらえなかった。ママ、今すぐ教えてよ。死んでいくんだから」

この女子大生の言葉から何を教えられるでしょうか。それは「死について理解」を常にもっているということです。

 ここでパウロはいつ処刑されるか分からない状況の中で、「わたしはキリストのものになっている」と言っています。

パウロにとってキリストは彼の人生のすべてでありました。彼の人生はキリスト抜きには考えられませんでした。 このようなパウロの言葉を聞く私たちはどうでしょうか。

 イエス・キリストは私の人生にとって一部分であるかもしれない。困った時の神だのみにすぎないという信仰である。

 私たちの人生は、聖書の教えによるならば、神様から与えられたものであります。それなのに神のご意志に反した生き方をしている。そのような私がイエス・キリストの十字架の死によって私たちの過ちが赦され、救われている、永遠の命を与えられている、このことによって私の人生観が変えられた。これは神様の恵みにより、私たちの信仰の応答によるものであります。

 パウロはキリストに出会い、キリストに反逆していた罪を赦され、その恵みに応えて残る生涯をキリストの救いを宣べ伝える人となったのであります。このことについてコリントの信徒への手紙2の1:8〜10にこのように書いています。

 「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、私たちは神に希望をかけています。あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。」また11:28には「死ぬような目に遭ったことも度々でした。」とあります。

 ユダヤ教徒からキリスト教徒に改宗したパウロは何度も彼らによって殺されそうになりました。その中でパウロは死を覚悟するのです。そのことが今朝のみ言葉にもうかがえます。1:20「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。パウロはユダヤ教徒の迫害の中で何度も死を覚悟し、死を意識しました。このことが、パウロをしてキリストへの献身の思いを深めさせ、常に十字架の死より復活されたキリストの命を充満させられ、キリストに仕えていったのであります。

 アメリカの精神科医キュープラ・ロスが書いた「死の瞬間」という本の中に「死の事実に直面して初めて本当の意味で生きることができるようになる」と言っています。

 パウロはまさにこの通りに生きた人であります。今日、日本にも「ホスピス」ができ、死の告知を受けた人がその病院に入院しています。そこでは延命治療をしません。ただ肉体の痛みをとる治療だけです。ここでは死を待つだけではありません。死を前にして如何に生きるかがなされています。

 このことは「ホスピス」だけでなく、「死の準備教育」としてなされています。上智大学のデーケン教授は死のタブー化に挑戦し、人間の生と死を真っ向から見据えた講座をもっています。

このような機運は中世のヨーロッパでも起こりました。「メメント・モリ、汝死ぬべき者であることを知れ」これは修道院の挨拶の言葉でした。この頃、「死の芸術」とういう本も沢山出版され、多くの人が

読んだそうです。しかし20世紀に入ると、死をタブー化するようになり死を忌むべきものとして社会から遠ざけられてしまいました。このような中で、私たちは死に対して心の準備をする機会を失ってしまったのです。今日の世の中はあのアメリカの女子大生と同じであります。今朝、このことについて聖書から神の言葉として学べることは、幸いなことです。

21節「わたしにとって、生きるとはキリスとであり、死ぬことは利益なのです。」これは驚くべき言葉です。私たちにとって死ぬことは、「損」であります。パウロにとって死ぬことが利益であるという考え方は、死そのものより死を越えた彼方を指しているからこのように言えたのであります。ここで死ぬことが利益である言葉には二つの面があります。一つは死に対する消極的な面であります。それは死ぬことによって肉体の苦痛、この世の思いわずらいであり、罪や誘惑から、精神的苦痛から解放されることであります。もう一つは対する積極的な面であります。そのことを23節では「この二つのことの間で、板挟みの状態です。」と言っております。

 コリント信徒への手紙2の58では「わたしたちは心強い。そして体を離れて主のもとに住むことをむしろ望んでいます。」とあります。死は完全に私たちをキリストに結びつけます。この地上でのイエス・キリストとの結びつきから、死によって天上のキリストにまみえることによって完全になるからであります。キリストにある死は「いのち」だからです。このことをパウロは「死ぬことは利益なのです」と語っているのであります。

 イエス・キリストは私たちの罪と死を滅してくださり、三日目に死に打ち勝って勝利の復活をされました。パウロはこのキリストと生きることは何という利益か、何という幸いなことかと言っているのであります。メソジストの創設者・ジョンウエスレーの臨終の床で残した言葉は「主とともにいることは最高の幸せである」と。

 私たちはパウロがこのように語っている「私自身の救い」を魂の奥底から信じて、喜び感謝する者でありたいと願う者であります。

 主イエスは山上の説教で「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と仰せになっています。

 私たちの救いのために尊い命まで捨てて、この私を愛し、救って下さった主イエス・キリストのために生きる。ここから私たちの日々の生活の指針を見出していきたいと思います。これからの人生を「如何に生きるか」もここから示されたいと思います。

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