無駄に終わらない人生
09.1.11
飯沢忠牧師
(田園調布教会協力牧師)
聖書 フィリピの信徒への手紙2:12-18 共に喜ぶ
だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしがともにいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。
今朝の聖書2:16にパウロは「わたしは自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」と言っています。
自分の人生を振返って、自分の走って来たことが無駄ではなかった、労苦してきたことが無駄ではなかったと思えたら、どんなに幸せなことでしょう。
旧約聖書のコレヘトの言葉の最初に「太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう」という言葉で始まっています。この著者は知識もあったし、才能もあって、それを用いていろんなことをしてきた人です。しかし、人生の終わりになってそうしたことが、みな空しく思うというのです。
旧約聖書のコレヘトの言葉の最初に「太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう」という言葉で始まっています。この著者は知識もあったし、才能もあって、それを用いていろんなことをしてきた人です。しかし、人生の終わりになってそうしたことが、みな空しく思うというのです。
パウロは何をもって自分の人生は無駄でなかったというのでしょうか。それはフィリピ教会の人々が、この曲がった時代のただ中にあって「傷のない神の子となり、いのちの言葉を堅く持って星のように輝いてくれたら」ということであります。
つまり、フィリピ教会の人々が信仰的にしっかりしてくれたら、自分の伝道者としての労苦は無駄でなかったと言っているのではないのです。自分はフィリピ教会の人々に伝道して、信仰に導いた、自分はフィリピ教会の人の役に立ったから、空しくないということでもないのです。
このことについて12節からみますと「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて御心のままに望ませ、行わせておられるのは、神であるからです」「とがめられることのない清い者となり非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、いのちの言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは自分の走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄でなかったとキリストの日に誇ることができるでしょう」というのです。
パウロは確かにフィリピ教会を建てるために、労苦をしてきた人です。彼らを信仰に導いたのもパウロです。しかし、これらは彼らが信仰の歩みを始めるきっかけをつくっただけで、彼らが本当に救われるかどうかは、彼ら自身の問題なのです。彼らが自分の救いの達成のために努力するかどうかは、彼らの努力にかかっているのです。いや、それ以上にその救いを完成へと導いて下さるのは神なのです。パウロはそのことを知っていたし、そのことを信じていました。パウロが神の御心から離れて、自分のやったことだけに固執していたら、それは空しいことになるのではないでしょうか。
もし私たちが役に立つことだけを生きがいだとするならば、年をとって人の役に立たなくなったとき、空しさに襲われてしまうのではないでしょうか。昔、自分は人に役に立った人だという思い出にひたるとか、それだけが晩年の生きがいになってしまったら寂しいことになってしまうのではないでしょうか。パウロがここで「自分の走ったことが無駄でなく労苦したことも無駄でなかったとキリストの日に誇ることができるでしょう」と言っているのは、自分の労苦が役に立ったと喜び、誇っているのではないのです。
12節「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」 フィリピ教会の人々が主の助けをいただいて信仰をもち続け、どんな苦しみに中にあっても、忍耐して信仰を全うするならば17節「わたしはあなたがた一同と共に喜びます。同様にあなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」と言っているのです。
ここでパウロが言っていることを自分に当てはめてみるとき、どうしても自分の人生を喜べない人もいるでしょう。人生は自分の思いどうりにはいかない、後悔することが多く自分を責めている人もいるでしょう。自分の今までの人生を消し去ってしまいたい、つらい過去を抱えている人もいるかも知れません。しかし、神様がその人の全てをご存知で、その人を捕らえていてくださるならば、その人の労苦と悩みは無駄でなかったと言ってもよいのです。
自分は誇るべきものは何一つ持たず、あるのは恥と汚れに満ちた人生であったと思えると
しても、神様にその悩みを一切告白し、委ねることができるならば、あなたの人生は無駄な人生ではないのです。
詩篇56:9に「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているのではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」と自分の重荷を思いながら歌っています。
私たちがこのように言える神様を知っており、イエス・キリストの父なる神様にすべてをさらけ出して告白する信仰が与えられているならば、その人の人生は無駄ではないのです。
私たちの悩みを聞いて下さる神様が、確りとあなたの人生を受け止めてくださるのです。その人も私の人生は無駄ではなかったと言い切って良いのです。あなたのすべてを主イエス・キリストが引き受けると言ってくださるならば、その人の人生は無駄ではなかったと確信して良いのです。
私どもの生涯において、いつも神様のみ手が伸ばされていたことを見ることができるとき、あなたの生涯は、主と共にあって空しく終わることがないと確信をもつことが許されるのです。
若い人にとって自分の10数年、20数年の歩みであってもボンヘッファという神学者の言葉を借りて言うならば、「人は神によって自分の今やっている仕事を中断させられる用意がなくてはならない」つまり、仕事というより、自分の今やっていることを考えてみること、自分はこれで良いのか、自分は真に意味のあるものに力を注いでいるだろうか、と自分に投げかけてみる。神の前に真に価値あることに力を注いでいるか、それとも自分の気の向くままに生きようとしているのか、立ち止まり、上からの光を受けて軌道修正していく、そのことは、無駄でない生涯にきっと結びついていくに違いありません。自分中心の考えを今一度中断して神との関係の中で自分の人生を問うてみることは大切なことです。一人ひとりの人生に神様が働いていることを知り、自分も神様の意志のもとにこの世に生み出されてきたものであることを知るとき、そこに永遠に結びつく生き方がきっとあなたの人生に始まってきます。
それが無駄でない人生を造りだしていくことになるのです。
コリントの信徒への手紙T15:58「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」とあります。
アメリカでは間もなくオバマ氏が黒人最初の大統領に就任します。昔、アメリカでは多くの黒人が奴隷としてアフリカから連れて来られ、黒人たちはお金で売り買いされ厳しい労働を強いられました。数えきれないほどの奴隷が家族と引き離されて自由を奪われ、重労働の中で傷つき死んでいきました。私たちはこのようなことを神を信じている人々が当然のこととして行ってきたことに驚きと失望を禁じ得ません。
1863年にリンカーン大統領の「奴隷解放宣言」によって、長い間続いた奴隷制度がやっと廃止されるまで実に1500万人の黒人たちが奴隷船に詰め込まれて大西洋を渡ってアメリカ大陸に来たのです。しかし、奴隷制度が廃止されたとはいえ、人々の心はなかなか変わる
ものではありませんでした。多くの人々がこの恐ろしい差別と闘いながら、一向に変わらぬ状況に疲れ、悲しみと怒りの中に死んでいったことと思います。
そうした中で今から45年前、マーティン・ルーサーキング牧師は暴力による運動に反対しつつ、イエス・キリストの愛の精神によって黒人差別をなくするための抗議運動を続けました。1963年8月23日「奴隷制度廃止百年」を記念する大行進がワシントンで行われました。リンカーン記念堂の前でのキング牧師の演説は多くの人が知っているものです。
「私には夢がある。いかなる困難があろうとも私はなおも夢を抱いている。その夢とはいつの日か、この国に『すべての人は平等』という当たり前の考えが実現するだろうということです」 キング牧師はその後、暗殺されました。キング牧師がこの夢を語ったときには、黒人大統領が誕生することは誰が予想できたでしょうか。
神様が造られた人間はみな同じ価値があるのです。このことの実現には長い長い苦難の道のりがあることを知らされます。
オバマ氏は祖父がアフリカから奴隷として連れて来られときのアフリカ名「バラク」を名乗っています。奴隷となったアフリカの人々が苦しい生活の中でイエス・キリストを信じた。その喜びを歌った「黒人霊歌」は私たちに感銘を与えています。
私たちは自分のしていることの良い結果、成果を見たいと願います。フィリピの信徒への手紙1:6に「あなたがたのうちに善い業を始められた方がキリスト・イエスの日までにその業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」とあります。キング牧師は闘いの最中、殺されました。自分のしていることが神の御心と信じているならば結果がすぐに見えなくても完成させてくださるのは神様なのです。
神様の御心が私たちに働きかけて必ず実現してくださるのです。私たちの人生はキリストと共にある者には決して無駄に終わることのない人生なのです。
この年もこの信仰に立って歩みましょう。