練達と奉仕の人

09.2.8

飯沢 忠牧師

 (田園調布教会協力牧師)

聖書 フィリピ2:19〜30 テモテとエパフロディトを送る

さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、しきりにあなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは、再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。だから、主に奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。

 私たちは一人では生きられないものとして神に造られています。私たちがこの世に生まれてから、この世を去る日まで多くの人々に支えられて生きています。それは目に見えるかたちにおいて、また私たちの気づかない影の働きによって支えられているのです。

 今日の聖書フィリピの信徒への手紙219節〜30節において年老いた使徒パウロの晩年を彼の側近としてパウロの手となり足となって支えた同信の友のことが記されています。

EFスコットという聖書学者はこの箇所はこの手紙の中心的な部分であると言っています。

パウロを支えた人はテモテとエパロフディトであります。パウロはテモテのことを口語訳聖書では「練達した」と言い、エパロフディトを「命を懸けた人」と言っています。当時の世界伝道を成し遂げた偉大な使徒パウロはこのような人々に支えられて福音宣教の業を押し進めていたのであります。

 キリストのためにパウロと共に苦労を共にし命を賭けた信仰の同労者たち、これらの人々の働きによって教会は2000年に亘って宣教の業をすすめ、地球の東の端にある日本の国にもキリストの福音が伝えられ、私たちはその救いにあづかっているのです。

 さて今朝はパウロがフィリピの教会員に紹介している信仰の同労者、テモテとエパフロディトの人物について学びたいと思います。

 219節から22節を読みますと「さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。」とあります。

 この箇所はパウロが捕らえられて牢獄にあったためにフィリピ教会に行くことができないでいたため、弟子のテモテを送る紹介状を書いている部分であります。テモテはこの手紙のはじめに「パウロとテモテから」と書いていますように、テモテはこの手紙の発信者でもあります。テモテはパウロと共にフィリピの町に福音を伝えた人であります。テモテはガラテヤ地方の出身で一家がクリスチャンの家族でありました。パウロはテモテを口語訳聖書では「信仰による真実な子」と呼んでいます。パウロがテモテを紹介している中心になる言葉は2122節「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。」と書いています。

 キリスト教信仰の特徴は、自分中心でなく、神中心であります。キリスト教が他の宗教とこと異なる点はこのところにあります。他の諸宗教が看板として掲げている多くのものは「ご利益」であります。「この神を信ずるならばこのようなご利益がある」と言うのです。交通安全のお札がタクシーや自家用車にさげられているのを目にすることがあります。聖書は自分のご利益のためにつくった神を「偶像」と呼んでいます。聖書が問題としているのは自分中心な欲望を問題にしているのです。319に「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」とあります。「腹」とは「欲望」であります。

 聖書が語っている信仰は自分の欲望を満たし、それを叶えてくれる信仰ではなく、利益追求の欲望を否定した、神第一、神中心の信仰であります。フィリピ121「わたしにとって生きるとはキリスとであり、死ぬことは利益なのです。」これは自分の利益を求める信仰とは大変な違いであります。主イエスは「自分の命を救うと思う者は、それを失い自分の命を失う者はそれを見いだすであろう」と仰せになりました。この逆説の真理は常識的な理性では理解できません。パウロはこの点について「十字架の言葉は滅びゆく者には愚かであるが信ずる者には神の力である」と語っています。

パウロはテモテについて「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」そういう中でテモテはキリストと共に生きる信仰に生きている。パウロはテモテの練達ぶりはあなたがたの知っているとおりであると述べています。「練達」(ドキメ)という言葉は金や銀が本物であるかを試す言葉であります。「試験済み」ということであります。熟練工のように筋金入りの信仰、どんな試練にもびくともしない堅実な信仰者であるということであります。神様が私たちに求めている信仰とは、練達した信仰者になるということでおあります。そのためには日々私たちのうちに起こる問題に対してキリストと共にあって、聖霊の力を与えられてこれらの問題を一つ一つ克服していくキリスト者であるということであります。私たちの教会に連なる会員が古い人も新しい人も年老いた人も若い人も練達した信徒によって、教会が形成され、たとえこの世の中にどんなことが起ころうとも、びくともしない筋金入りの信仰者の群れでありたいと願う者であります。

 韓国のソウルに「永楽教会」というプロテスタントの教会があります。行かれたりご存知の方も多いと思います。この教会は戦時中には日本総督府から弾圧を受け、戦後は朝鮮戦争で共産軍から迫害を受けた教会であります。この教会の玄関のところに殉教した牧師や会員の記念碑が立っているそうです。教会員は堂の玄関に入るたびにこの殉教者の碑を見て礼拝に望むのであります。この教会の原動力と生命力は実に幾多の迫害、困難を克服してきた練達した人々の信仰を継承していることにあります。

 第二の人はエパフロおディトであります。エパフロディトはフィリピ教会の会員で、フィリピ教会から獄中にあるパウロを案じ、パウロに仕えるために遣わされた人であります。当時の牢獄ではこのようなことが許されていたようであります。エパフロディトはこの務めに献身的な奉仕をしました。パウロの手紙によりますとエパフロディトは、パウロに仕えているうちに病気になり、死の一歩手前にまでいったとあります。この知らせを聞いたフィリピ教会の人々は非常に心配しました。パウロはエパフロディトをフィリピに帰すことにしました。その時、エパフロディトはその務めを途中にして母教会に帰ることを躊躇していたのです。パウロはエパフロディトの心中を察して、ここに手紙を書いています。2629節「しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。」 次の30節に書かれている言葉は、エパフロディトに対するパウロの賞賛の言葉が最高潮に達したものであります。30節に「わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。」ここにある「奉仕」という言葉は(レイイトルギア)は「神を礼拝する」という意味の言葉であります。

 エパフロディトはフィリピの教会員たちが遠く離れた地で捕らわれの身とされている年老いたパウロの身を案じている。その思いを一身に受けてパウロに日夜献身的な奉仕をしました。彼にとってこのことは命がけでありました。エパフロディト場合によっては捕らえられる危険があったからであります。そうした中で彼は重い病にかかり死線をさまよったのであります。このような命がけ奉仕こそ、生きた神への礼拝、レイトルギア、奉仕であります。

私たちの隣人への奉仕は神への礼拝の行為でもあります。マタイ253540に「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」とあります。エパフロディトはこのような奉仕の業を通して神に栄光を帰したのであります。

ここである大雪の日の礼拝の話をしたいと思います。北海道お教会での体験です。私は炭鉱のある町の教会の牧師をしておりました。北海道では地域にもよりますが、大雪になりますとバスも電車も止まり学校は休みとなります。ある日曜日の朝のことです。その日は年に数回しかないような大雪となりました。交通機関はすべて止まり、朝から何度も雪寄せをしても、雪は降り続き道もない状態でした。教会員のほとんどの人は炭鉱からバスや汽車で来て、駅から15分ほど歩いて来ていました。礼拝堂のストーブを焚き、何度も何度も雪寄せをするために玄関を出たり入ったりしているうちに、とうとう礼拝が始まる時間は過ぎていました。今日の礼拝は私たち夫婦二人だけと思っていた頃一人の人が雪だるまのような姿で玄関にたどりついたのです。防寒具をまとっていても顔には眉毛からつららが下がり、長靴は雪がつまり脱げない状態でした。その日の積雪は腰までありました。その中を歩いて来たのです。一番最初のこの人は三井炭鉱からバスで20分ほど山奥に入った所に住んでいました。この日礼拝には10数名の人が出席しました。私は北海道生れで雪との闘いを知っていましたが、この日は誰も来るはずはないと思っていたことを恥ずかしく思った次第です。私はここでこのような熱心さを話しているのではありません。教会というものはこのような捨て身の人々のひたすらな信仰によって支えられ、生かされているのだということです。信仰の価値はその人がどのような生き方をするか、そして他の人とどのような関係をつくっていくかで測られているのです。パウロはテモテとエパフロディトを信仰に導き、そして苦難の時にはこの二人によって支えられたのです。

私たちの信仰による生き方はどうでしょうか。他の人とキリストの愛による人間関係をつくり上げる生き方を本日のみ言は語っているのではないでしょうか。神に仕えるとは、ひたすらな信仰をもって神を礼拝し、隣り人に仕える愛の業に励むことではないでしょうか。

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