荒れ野の誘惑

095.10(復活後第四主日礼拝)

飯沢忠牧師

田園調布教会協力牧師)

聖書 マルコ11213 ルカ4113誘惑を受ける

それから、霊“はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

 主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた後、マルコは「それから霊はイエスを荒れ野に送り出した」とあります。聖書に書かれている「荒れ野」は砂漠のような自然の荒れ野だけでなく、人間が生きるにはあまりにも厳しい環境、水も食べ物、緑もなく、住む人もいない所をさしています。生きていく条件が整わず、孤独と不安と恐れに襲われる所です。

マルコは「主イエスを荒れ野に送り出した、と言っていますが、「送り出す」という言葉の本来の意味は「捨てる、強いて、無理に」という意味の言葉です。主イエスは荒れ野に神の霊によって強いて、無理に捨てられたということであります。

ヨハネ福音書は「言は即ちイエスは自分の民の所へ来たが民は受け入れなかった」(112)と言っています。さらに主イエスは弟子たちにも、群集にも、そして父なる神にも捨てられた十字架の死を遂げるのです。「神の霊はイエスを荒れ野に捨てられた」 13節に「イエスは40日間、そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」とあります。

かつてイスラレルの民は、エジプトから脱出して、モーセと共にあれので40年の試練の旅をしました。そこで神様から十の戒めを与えられました。

マタイとルカ福音書は荒れ野でサタンから三つの誘惑を受けたと書いています。マルコは何故三つの誘惑を書いていないのか、多くの聖書学者が色々な学説をあげていますが、ここではそれをはぶきます。私たちも人生の荒れ野で強いて無理に送り出されて、主イエスと同じように試練に会うことがあります。

 ルカ福音書41節から4節に記されている第一の誘惑のところを見ますと「霊によって引き回され」「40日間、何も食べず」とあります。パンは生きていくために必要なものです。

人間にとって基本的な課題は今日的に解釈しますと経済問題であります。今日、私たちは100年に一度といわれる世界的な経済危機の荒れ野に投げ出されています。

 主イエスは旧約聖書の申命記83節の「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の神の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」のみ言葉をもって答えたのであります。私たちはこの世の何ものにもまさって「神の口から出るみ言葉に従って生きる者であります。

 第二の誘惑は457「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」これは自分の欲望のままにすべてのものを手にしたいという願望に対する誘惑であります。

 主イエスは洗礼によって聖霊によるバプテスマを受け、神の霊の油を注がれ、王の王であるメシアに就任したのであります。主イエスは神から離れて滅びに向っている世界を再び神のものに戻すという使命をおびて来たり給うた方であります。主イエスは一人ひとりの魂を悔い改めに導き、神の民とし、キリストの教会を神のみ前に捧げることにありました。それに対して、サタンは「私の力を借りたらどうですか、私をひれ伏して拝めばいいのです」と言います。

 私たちも日々の生活の中で、神第一の生活よりも他のものを第一とする誘惑であります。

この誘惑に対して主イエスは申613の「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてあると答えました。この世の究極的支配原理が神のみ旨に背き、悪魔的なものになるとき、倫理と道徳は破滅します。私どもは正義と愛に満ち給う神がおられることを信じて、主イエスがこの世をあるべき本来の姿に回復しようとしておられる。神の国を実現しようとしておられる。この原点に立ち、私たちを滅びから救って下さった十字架と復活の「主を拝み、主に仕え」て行く者でありたいと願います。

第三の誘惑は4913 主イエスをエルサレムの神殿の屋根の端に立たせ、神の子ならここから飛び降りたらどうだという奇跡的力を求める誘惑であります。これに対して主イエスは「あなたの神である主を試してはならない」と書いてあると申616のみ言葉をもって誘惑を退けたのであります。

私たちは誘惑に出会ったとき、主イエスが答えられたように聖書の神の言葉を通し、み言葉の解き証である説教をとおして十字架の死より復活されたメッセージを聴いています。

 主が復活された朝、墓を訪れた婦人たちは、主イエスの死を嘆き悲しみ、墓が空であることを見て、更に驚きと不安でいっぱいになりました。彼女たちのうろたえる姿を見て、天使が主が復活されたことを伝えました。主が三日目に蘇るとの主のみ言葉を聞いていながら、現実の悲しみが心をふさぎ、墓が空であることを見ても主が復活されるというみ言葉を忘れていました。婦人たちの知らせを聞いた弟子たちも主の約束の言葉を忘れ、理解せず、最初は信じませんでした。復活の主はこのような悲しみと不安の中にあり、約束のみ言葉を忘れた心の荒れ野にある人々にあらわれてくださいました。

 マルコ113に主が誘惑に会われている「その間、野獣と一緒におられたが天使たちが仕えていた」とあります。私たちが人生の荒れ野で試練に会っているときも、神から遣わされた色々なかたちの天使たちが、私たちに仕えてくださる、助けてくださる様々なことを通して神様が私たちを守っていてくださるということがあります。

 ヘブライ人への手紙41416に「わたしたちの大祭司、神の子イエスが与えられているのです。この大祭司はわたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練と遭われたのです。だから憐れみを受け、恵みに与って時期に適った助けをいただくために大胆に恵みの座に近ずこうではありませんか」とすすめています。

 エレミヤはバビロン滅亡について厳しい「荒れ野」の預言をしています。501213 「見よ、国々の最後のものであるバビロンは乾いた荒れ野、荒れ地となる。主の憤りによって住む者はいなくなり、すべてが廃墟となり、バビロンのそばを通る者は皆、恐れ、その破壊を見て嘲る」とあります。

 バビロンはローマ帝国を指していましたが、今日では核戦争によって広島、長崎のように地球が滅びる危険、あるいは地球温暖化による異常気象現象によって恐るべき地球となることを指しているかもしれません。現代社会は真の神を見失い、人々の心は荒れ野となりつつあります。主イエス・キリストはこの世に来たり給うてサタンの誘惑に勝ち、十字架の死より復活して私たち全人類の救い主となってくださいました。

 ここで一人のキリスト者のことをお話します。1945年、日本は戦争に敗れました。Aさんは東京大空襲で親、兄弟、家をすべて失いました。たった一人、廃墟の中に生き残ったこの少年は多くの戦災孤児と同じく、上野駅の地下道にたむろするいわゆる浮浪児として生活をし、色々のことをしてやっと生き延びていたそうです。その心も荒れ果てまさに荒れ野の生活をしていたのです。ある時手配師のような人に誘われて北海道の炭鉱にやって来ました。

そこで私が後に赴任した教会の家庭集会に誘われ、すべてを失った乾ききった心にキリストの福音が注ぎこまれました。Aさんはむさぼるように聖書を読み、クリスチャンとなりました。わたしが出会ったとき、彼はあこがれの家庭をもち、子どもも与えられていました。幸せなはずの家庭生活でした。しかし、それがサタンの誘惑の標的となったのです。生き字引といわるほど聖書を読み、教会学校の校長にもなりました。しかし、この世の価値を優先したい妻の期待と食い違い、家庭は暗くなり、信仰ゆえの苦悩の日々が続きました。けれども主は見捨てることなく、み言葉にしがみつく彼に逃れる道を備えてくださいました。今もAさんは北海道で証の生活を続けておられます。

神はイエス・キリストによって罪を犯し続ける人間を忍耐をもって赦し続けてくださいます。人の命がないがしろにされている悲惨な現代の荒れ野の中にあっても「キリエ・エレイソン」「主よ 憐れみたまえ」「主よ 平安を与えたまえ」と祈り、私たちに先立ち、荒れ野の誘惑に勝ち給うた主、十字架と復活の主と共にあって、希望を失うことなく、雄々しく神様のみ心を行う歩みを共にしたいと願う者であります。

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