信仰の父 アブラハム

 09.8.9 (ロゴスでの最後の証言です)

  飯沢 忠牧師

  (田園調布教会協力牧師)

創世記1219 ヘブライ11819

 今朝はアブラハムの生涯を通してみ言葉に聴きたいと思います。創世記121「アブラム」とあるが、1745で「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。」とある。私たちの神を信じていく生活は、心配がなく平安な生活が続くものと考えがちである。しかし、現実には数々の困難な問題が起こるのである。

 1節に「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」とあり、4節に「アブラムは主の言葉に従って旅立った」とある。ヘブライ18には、「行き先も知らずに出発した」とある。彼は神を信頼して、これから先、何が起こるかわからない旅に出たのである。生まれ故郷、父の家を離れて自分が今まで大切にしてきたものを捨てて、ただ神のみ言葉を信じて全く違った生き方へと進むのである。2節―3節を見ると「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを祝う者をわたしは祝う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」とある。神はこのことによってアブラハムを祝福すると言われる。

そして他の人々が彼にどのような接し方をするかを見て、あるときはその人を呪い、あるいは祝福する。即ち、こうして神はアブラハムの行く道を守るというのである。

アブラハムは神第一の生活を貫き、途中祭壇を築き、礼拝をし、神の御名を呼びつつ旅を続けて行くのである。10節以下に「飢饉」に出会ったことが記されている。彼とその一行は

飢饉を逃れ、エジプトへ行く。彼の妻サラは美しい人であったので、アブラハムは妻を自分が殺されることを恐れて、サライを自分の妹と偽るのである。そのためにサライはファラオの王に妻として召しいれられるのである。このことが主の怒りにふれ、ファラオと宮廷の人々に恐ろしい病気が広がるのである。ファラオがこの原因がアブラハムの偽りから出たことを知り、彼らをエジプトから去らせるのである。

 アブラハムは主から「あなたを大いなる国民にし、祝福する」とのみ言葉を受け、それを信じて旅立ったのであるが、しかし旅の途中で身の危険を感じたとき、「偽り」をもって切り抜けようとした。人間が生きるということ、「生き延びる」ということは、何らかの形で、他人を犠牲にしてしまうことがあるのである。このことは私たちが危機に遭遇したときにあらわになる。

 ローマの信徒への手紙28に神は「不義に従う者には怒りと憤りをお示しになります」とあるが、アブラハムの場合、神の怒りは本人にではなく、エジプトの王ファラオと宮廷の人々に下されたのである。サムエル記下11章以下にはダビデ王が自分の部下の妻を自分のものにするため、卑劣な手段でその部下を最も激しい職場に行かせて戦死させた。この時も神の怒りはダビデ自身にではなく、ダビデの子が死ぬという結果で現されている。

 神は私たち人間の考える常識とは違った形で御心を示されることがある。私たちの御旨にかなわない数々の罪の結果が、思いがけない結果となって他の人を苦しめることがあるのだと知らされる。私たちの周りに起こる様々な悲惨な出来事の理由を、私たちは理解できないことが多い。自分とは関係ないと思うことの中に、実は関わりのあることもあるのではないかと問われるのである。

 さて、王から「あなたの子孫を星の数のようにする」(1556)との祝福を与えられながらもアブラハムと妻サライの考えによって、奴隷ハガルによってアブラハムの子供を産ませるのである。人間には待つことの限界があり、主を信じつつも揺れ動き、様々な方策を探るのである。

1715節以下に神はアブラハムに男の子を与えると言われるが、アブラハムは「百歳の男に子供が生まれるだろうか。90歳のサラに子供が産めるだろうか」と言って笑うのである。神は「サライではなくサラと呼びなさい」と言い、サラに向かって男の子を産む、その子をイサク(彼は笑う)と言う意味の名を付けなさいと語っている。サラも1812に「ひそかに笑ったのである。」 しかしヘブライ人への手紙1111には「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました・約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。」と記されている。そんなはずはないと思う一方、神の約束を信じた結果、子供が与えられている。主の言葉の故に信じる。これが信仰者の姿である。

このことについて、創世記1813に「主はアブラハムに言われた。主に不可能なことがあろうか」と記されている。その後アブラハムにイサクを与えられた時、神の大きな試みを受けるのである。221「これらのことの後で」とある。人間的な様々な出来事が続いた後のことである。

222節に「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」と。このような恐ろしい言葉をアブラハムは、どのように受け止めたでしょうか。彼は命じられた通り準備し、実際にイサクに手をかけて殺そうとしたのである。

その時、天からの声があり、それを止めたのである。2212「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、じぶんの独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」 自分の子を献げものとして差し出し自ら手を下すということは、はたしてできるであろうか。自分の将来をこの子に託し、神の約束によって、やっと与えられた子である。この行為は自分を捧げるよりも、もっと厳しいものであったに違いない。

この時、アブラハムは以前にしたように自分の幸せのために神の命令に従うとしたのではなく神に従う信仰の厳しさの故に、神を畏れる信仰の故にイサクを献げようとしたのである。アブラハムは人生の旅の途上で様々な出来事を通し失敗しながらも、信仰を失わなかった。

ヘブライ111719「信仰によって、アブラハムは試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」このことの故に彼は「信仰の父」と呼ばれるのである。

それでは私たちの不信仰と不従順に対する神の怒りはどのように現されたのか。神はご自身の独り子イエス・キリストに私たち人間の犯す全ての罪を負わせ、み子を十字架上で呪い罰することによって私たちの罪を赦し、救ってくださったのである。ここに神の限りない憐れみと愛がある。私たちのなすべきことは、自らの罪を認めて、悔い改め十字架の購いをなされた主イエス・キリストを信ずることのみである。

ヘブライ人への手紙11章には「信仰によって誰は・・・」という言葉が繰り返し記されている。

今年はプロテスタント宣教150周年ということで感謝と記念の集会がもたれた。150年より前に琉球、今日の沖縄で伝道がなされたことも覚えなければならない。

また、カトリックでは最初に伝えられたのは、もっと前でキリシタンの迫害で多くの人が殉教したことは皆さんもよくご存知の通りである。

外国から日本に宣教のために来られた多くの宣教師たちは未知の日本に神からの使命を受けて、信仰の故に来られた。この教会にも何人かの方々が尊い奉仕をされたことを、私たちは感謝している。

私が北海道に17年余りいた間に、多くの宣教師の方の協力をいただいた。その一人のことをお話したい。その方は、日本の敗戦と同時に進駐軍の一員として来日し、日本の惨状を見、アメリカに帰国してから神学校に入り、卒業と同時に再び日本に来られ、北海道に遣わされ、困難な伝道の地で献身的な奉仕をされた。私たちは車に乗り、立派な宣教師館に住み、その方の生活は豊なものに見えた。この方は私たちに色々と援助して下さった。ある時、教会での集会で靴を脱ぎ、上着を脱いで映写機の操作を見て驚いた。その方のシャツも靴下も穴があいて古びたものだったからである。

アブラハムのように「行き先を知らずに」すべてを捧げて日本に来て5人の子供を育てておられる大変さをはじめて知らされた。隠退して帰国されたその方より、是非会いたいと切望され、数年前、私たちはアメリカの宣教師の隠退村を訪問した。アメリカにはいくつかのよのような村があるが、そこでは300人位が住み、そのうち40人くらいの人々が日本の伝道に生涯を捧げた方々だった。質素な隠退後の生活は私たちの胸に迫るものがあった。

私たちの信仰は、今、どうなのか。

信仰の父といわれたイスラエル民族の祖アブラハムの信仰が受け継がれ、イエス・キリストの誕生へとつながった。この信仰は今も、私たちに受け継がれている。私たちはこれからも信仰を守り、次の世代へとこの信仰を伝えていきたい。

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