十字架上のイエス

094.5

飯沢 忠牧師

(田園調布教会協力牧師)

★聖書マルコ153341 イエスの死

既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。そして百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。ヨセフは亜麻を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入口には石を転がしておいた。マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。

 今日は主イエスが地上で生活された最後の一週間の最初の日であります。この週の金曜日に地上の生涯を終えられたのであります。しかし、主イエスは死んでも三日目に蘇られて私たち人間の救い主となられたのであります。

 今朝はその主イエスの十字架上での苦しみから御言を学びたいと思います。

 1533に「昼の12時になると、全地は暗くなり」とあります。これは真昼の暗黒であります。この暗黒は主の十字架とは無関係な日蝕ではなかったことが科学的に調べてみても確かだそうです。そうするとこの暗黒の意味は神が大能を力をもって主の十字架上での苦闘を闇の中に隠し給うたことを示しています。この闇は3時まで続いたのです。

3時は主イエスの死の時であります。

暗闇は、自分も他人も見ることを許さない。その中で主イエスの十字架も見えなくなっている。見えない十字架のそばに、見えない自分と他の者が立っている。そこでただ一つ、主イエスの言葉というよりも主イエスの絶叫であります。この世を神がお造りになった最初に、神は「光あれ」といわれました。その天地宇宙の創造の神が自ら造り給うた「光」を取り去ってしまわれた時、人間のすべての言葉もなくなった。その中で主イエスの叫びが響いてきたのです。

34)「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」これは聖書の中で聞く最も真剣な言葉であります。それは「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

光が全地から取り去れた時、この言葉が残されました。ただ一つ、人となり給うた神の御子、主イエスの言葉だけが残された。この言葉が暗黒の中で大声で叫び響き渡ったのです。これこそ暗黒の世界において人類が聴くべき究極のことばであります。

 人間はこれ以外に何一つ、真の言葉を持たない。人間の虚無、死、無意味、廃墟、混沌という暗黒の中にあって、自分も相手も見えなくなった中で神は、イエスの言葉一つだけを与えて下さったのであります。ここにだけ人間の拠るべき根拠だけが残されている。

「なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」私たちの呪われた存在の究極において、この言葉だけが人間に聴くことを許されているのです。

 主イエスが死を直前にして語られたこの言葉は一体何を意味しているのでしょうか。

 この言葉は先ほど交読した詩篇22の最初に記されています。主は十字架上にあってこの詩篇を唱える中で息絶えたのでしょうか。そうだとするならばこの22編を読むとわかるのですが、この詩の出だしは真剣ですが、全体としては喜びと感謝に満ちた歌なのであります。

そうすると、主の復活によってもたらされた人間の罪と死を克服された復活喜びが暗示されているのです。主の十字架上の叫びを深刻なものと受け取る問題はなくなるのです。しかしこの言葉そのものは、イエスが父なる神から捨てられたことには変わりはないのです。

 ガラテヤの信徒への手紙3:13にパウロは「キリストはわたしたちのために呪いとなって」と申命記21:23の言葉を引用して、主イエスの死は確かに呪われ捨てられた死であると述べています。私たちは主イエスが当時の人々から捨てられたと見るだけでなく、神が見捨てられたことを覚えなければなりません。

イザヤ書536に「そのわたしたちの非をすべて主は彼に負わせられた」とあります。

主が十字架につけられ呪われ神に捨てられたのは、私たちのためであったことを知らなければなりません。父なる神は私たち人間の犯したすべてのあやまちを神の御子キリストの十字架の上におかれたのであります。

ルカによる福音書2328には十字架を背負ってゴルゴダの丘に登ってゆく姿を見て婦人たちが泣いていると主は「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな、むしろ十字架の上で苦しみもだえている主イエスの悲惨なみ姿に胸を打たれる私たちは自分たちの悲惨さに立ち返らされるのです。

その悲惨さを主が代わって負っていることを私たちは知ります。そこに神の御子を十字架につけて死なしめるほど、私たち人間の罪がいかに大きなものであるかを知らされます。

 主イエスの十字架の死は徹底した絶望を示すと同時に徹底した勝利を示しているのです。ヨハネによる福音書1930を見ると主が息を引き取られる時、口語訳聖書に「すべてが終わった」という言葉を主は残しておられます。このみ言葉は勝利を含んだ言葉です。このことを知るためには三日後の主の復活まで待たねばなりません。

 最後に主の叫びの中に「なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」とういうみ言葉から学ばなければなりません。

 主イエスを信ずる私たちは、私たちも「捨てられる」ことを覚悟しなければならないということであります。

 パウロはローマの信徒への手紙39〜「肉による同胞のためならば、キリストから離れ、神から見捨てられた者となっても良いとさえ思っている」と語っています。

 主は私たちを愛する故に捨てられました。私たちも私たちの愛する肉親、兄弟、友人から裏切られ、捨てられることがあるかもしれません。もしも、そのようなことが起こったとき、私たちも人間の弱さと罪の故に自分自身が呪いとなることがある。

 たとえ人から誤解され、煮え湯を飲まされ、砂をかむようなことがあったとしても、それをキリストと共に耐える必要があることをその時、知るようになるのです。

 パウロは「悪に負けてはいけない。善をもって悪に勝ちなさい」と言っています。

 これは復活の信仰に生きる信仰者の姿であります。

 今日より迎える受難週にあって主が私のために十字架の苦しみにあわれたことを思い、その中から主の愛を知る一週間の歩みにしたいと思います。

 そして次の主の日々は復活節の喜びの朝を迎え、共に主を心から賛美し礼拝するイースターを迎えたいと思います。

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