聞き従うべき方



井本 克二牧師 (417日礼拝)


しかしペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが神の前に正しいかどうか考えてください。私たちは見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」。 (使徒言行録4章19〜20節)

 招きの言葉 サムエル記上 15章22節 讃美歌 168番 「イエスきみの御名にまさる名は無し」

一、大祭司らに尋問されるペテロとヨハネ

使徒言行録第4章は、いらだつユダヤ教のサドカイ派によって逮捕された使徒ペトロとヨハネが、裁判の席で堂々と弁明している姿が描かれています。裁判する側の顔ぶれは、まず大祭司アンナス、カイアファ、ヨハネ、アレクサンドロなどの大祭司の一族(つまり支配者である神殿貴族)と、サンヘドリンと呼ばれる最高法院の議員たち(政治家)、長老たち(地域代表)、律法学者たち(つまり伝統主義者)でした。彼らはペトロとヨハネを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、誰の名によって、ああいうことをしたのか」と尋問します。彼らはすばらしい奇跡がなされたという事実は無視して、自分たちの面子だけを気にしています。それに対してペトロは聖霊に満たされて、「私たちは何も悪事を働いたわけではなく、病人を癒すという良いことをしただけです。どうしてそのような奇跡ができたのかといえば、あなたがたが十字架につけて殺したけれども神が死者の中から復活させたナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」と大胆に話しました。

さすがに、奇跡が行われたという事実は否定できない大祭司や長老たちは、キリスト者たちの影響が広まることを恐れて、「今後は決してイエスの名によって話したり教えたりしないように」口止めしようとしますが、ペトロとヨハネは、「神に従わないであなた方に従うことが、神の前に正しいかどうか考えてください。私たちは見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と突っぱねますが、まことに勇気のある態度であると思います。そして、ここで現代のキリスト者である私たちが考えなければならないテーマは、「私たちキリスト者が聞き従うべき方はいったい誰なのか」また、「その方は今私たちに何を語っておられるのか」という課題です。

二、親や先生の言う事に聞き従いなさいと言われて育ったが

私が子どものころは、「親の言うことを聞きなさい」とか、「先生の言うことに素直に聞きなさい」と繰り返し言われました。けれども、私のように比較的おとなしい人間だと言われ自分でもそう思っていましたが、思い出せば、けっこう親や先生に逆らっています。私の父親は整理整頓に関してうるさく、「散らかしてはいけない」とか、「はやく片付けなさい」と言われました。また学校の先生からは、「何でも自分で判断して行動しなさい」と言われましたが、大学生になりアルバイトで会社に行くと、係長さんから、「自分で勝手に判断しないで、いちいち私に聞いてください」といわれたので、学校と社会とは言い方が反対だなあとも感じました。

神学校を卒業して10年間、伝道師や副牧師として教会の伝道・牧会に携わりましたが、行人坂教会の主任牧師木村知己先生や香港日本基督者会の議長藤田一郎先生の指示は厳しく、容赦のないものでしたから、必死に言われたとおり動いていました。その後キリスト教学校の教師になってからは、自分自身少し余裕がでてきたからかもしれませんが楽でした。校長先生はあまり細かいことは言わず、ほとんどのことは職員会議で決まっていたからです。もともと管理されたり管理したりすることが嫌いな私は、職員会議の決定を無視したり、生徒のためになるように勝手に解釈して行動していましたから、同僚からは胡散臭い目で見られていたようです。

三、迫害の歴史を忘れないように

さて使徒言行録第4章において使徒ペトロとヨハネが置かれた立場はかなり恐ろしい緊迫した場面です。普通であれば何も言えず黙っているしかないような状況でした。しかし使徒たちは聖霊の力に満たされて堂々と反論して大祭司たちに付け入る隙を与えませんでした。これこそマタイによる福音書10章9〜13節(新共同訳聖書17ページ朗読)やマルコによる福音書13章9〜13節(88ページ朗読)において主イエス・キリストが予め語っておられた状況です。

 今は日本でも世界でも、キリスト教を信じているというだけで迫害されることはほとんどなくなりましたが、これまでは日本でも世界でも数多くの迫害がありました。初代教会あるいはローマ帝国の初期にネロ皇帝やドミティアヌス皇帝によるキリスト教徒迫害のすさまじさは皆さんも聞いておられると思います。しかしキリスト者たちは聖霊の力に支えられ、その時代を切り抜けることができました。たとえば今のトルコ半島において紀元2世紀のスミルナの司教ポリュカルポスは火あぶりの刑で殉教しましたが、逮捕した役人は彼の人徳を良く知っていましたから、何とか助けようとして、「あなたが悪い人でないことは分かっています。ただ、キリストを否認しなければ火あぶりにしするという法律ができてしまいましたから、口先だけでもキリストを信じていないとおっしゃってください。そうすれば私の権限であなたを助けることができます」と言ってくれました。それに対してポリュカルポスは、「主イエス・キリストは86年間も私に対して信実であられました。口先だけであっても私は主イエス・キリストを信じていないなどとは言えません」と答えて死んでいったと申します。

日本でも16世紀のキリシタンに対する迫害が有名です。私は高校2年生の九州方面の修学旅行に同行しましたが、1597年の長崎の26聖人の殉教の記念碑などを見たことがあります。そのような厳しい時代は本当に終わったのでしょうか。あるいはまた再びそのような時代がくるのでしょうか。それは分かりませんが、とにかく安楽な生活に慣れてしまわないようにしなればなりません。使徒言行録14章22節には、使徒パウロがトルコ半島の町リストラ、イコニオン、ピシディシアのアンティオキアのキリスト者に対して、「私たちが神の国に入るためには、多くの苦しみを経なければならない」と語りましたが、私もその言葉を時々思い出して自らを戒めています。まさか迫害の時代が来てほしいなどとは思いませんし、そのような時代がすぐ来るとも思いませんが、現代のキリスト者は私を含めて信仰的に生ぬるい人間になっているのではないかと思います。私たちが聞き従うべき方とは、勿論、神さまですが、さてそれでは、神さまは今私たちに何と語っておられるのでしょうか。     

私は預言者ではありませんから、「それはこれです!」と言い切るメツセージは持ち合わせていませんが、「しかし、このままではいけない」とは感じています。日本のキリスト教はこれでよいのでしょうか。教会はこのままでよいのでしょうか。聖書を読みながら、祈りながら皆さんと一緒に考えたいと思います。ナチス・ドイツと戦ったスイスの神学者カール・バルトは、「神の言葉は聖書や教会の中だけでなく、新聞やラジオで見聞きする様々な社会問題の中からも聞こえてくるはずです」と語りましたが、私たちもいろいろな出来事に注意をしてその中から神さまの声を聞き取りたいものです。

四、民生委員・児童委員に関する記事を読んで

私は一昨年7月に上野原町の福祉協力員になりました。もともとは国庫補助指定の町の福祉プロジェクト「ふれあいのまちづくり事業」のために設置された推進委員ですが、あまり活動はなされておらず、何となく民生委員のヘルパーのような存在でした。そして昨年12月から民生委員児童委員となりましたが、これは皆さんもご承知の厚生労働大臣から委嘱されるもので全国に23万人いて制度的に確立しています。

今年の2月の朝日新聞の第1面に、「民生・児童委員の担い手は先細り」という見出しで簡単な統計が出ていました。それによりますと、3年に1回ある昨年12月の委員の切り替え時(そのとき私も民生委員になったのですが)、全国で欠員が3000人生じたというものです。しかし統計をよく見れば、全体のわずか1.3パーセントにすぎません。好意的な記事でしょうが、悲観的な捉え方

にすぎると思いました。記事ではさらに、約40年間、新潟で民生委員をした僧侶の感想が載っており、「自分の担当する家庭は300世帯で大変だった」と語っていました。都留市で2月に開催されて私も出席した山梨県郡内地域(県の半分)の新任児童委員民生委員研修会でも、東京都社会福祉協議会の元事務局次長で現在、特別研究員である小島ヨシ子先生による東京のある新任の民生委員の話を聞きました。その民生委員は担当する300世帯はすぐ回りきれないと思い、必要度の高い家庭から訪問していましたら、何も問題ないはずの老夫婦が相次いで倒れて死亡していたのです。そのことをだいぶ後になって知ってたいへん苦しんだそうです。このような話を聞けば、なおさら民生委員のなり手がなくなるのですが、しかしそのような事態は、民生委員の定員をふやして担当する家庭の数を減らせばよいことではないでしょうか。私は社会学科の学生時代に都市社会学や社会保障を専攻しましたが、共産党系の教授が、「北欧やイギリスなどが標榜する社会福祉国家という理念は幻想にすぎないから、遅かれ早かれ財政的に破綻するはずだ」と語っていました。1979年にイギリスのサッチャー首相が経済を立て直すため大々的に国営産業を民営化してから、アメリカやロシアなど世界中が、そして今では日本もどんどん民営化を図っていますからある意味では、その教授が言っていたような事態になったわけです。しかし社会福祉国家は幻想であるとまでは言えないにしても、バブル経済に頼っていたこれまでの過保護的福祉政策は反省すべき時代に突入していることは確かです。社会福祉の先進国である北ヨーロッパはだいぶ前から独自の政策を掲げて成功していますから、人口が1000万ほどの北欧の国家と、人口が1億人を超す日本とは同列に論じることはできませんが、学ぶところが多いのではないかと思います。

五、上野原の民生委員・児童委員になって

私の場合は上野原市島田地区東区の170世帯が担当ですが、実際に毎月定期的に家庭訪問しなければならないのは70歳前後の一人暮らしのひとあるしは夫婦ふたりだけの家や、寝たきりの人および重度の障害者や、経済的に困難な家庭などの30世帯です。民生委員・児童委員の基本的な役割は行政とのパイプ役で、家庭の要望や実情を関係機関に伝えた私の場合は上野原市島田地区東区の170世帯が担当ですが、実際に毎月定期的に家庭訪問しなければならないのは、70歳前後の一人暮らしのひとあるしは夫婦ふたりだけの家や、寝たきりの人および重度の障害者や、経済的に困難な家庭などの30世帯です。民生委員・児童委員の基本的な役割は行政とのパイプ役で、家庭の要望や実情を関係機関に伝えたり、敬老の日や年末年始に市役所からのプレゼントを届ける「友愛訪問」くらいですから、毎月3回ほどに分けて、各2時間ほど家庭訪問すれば何とか責任を果たすことができます。 また、民生委員の守秘義務はよく知られていることですが、毎月1回、島田地区民生委員・児童委員協議会が開かれて、そこでは8人の地区担当委員と、

上野原市全体を担当する主任児童委員と、島田支所の職員が活動報告したり、研究報告したり、相談しあったりしていますので、精神的にはたいへん楽です。最近では、それに加えてやはり各地区ひとりいる福祉協力員も協議会のメンバーに入れる必要があるのではないかと話し合っています。

 さきほど私は、「地域牧会」という神学用語を使いましたが、民生委員の仕事にもたいへん良くあてはまる言葉です。民生委員は地域の人たちによく理解され、信頼されていますから、家庭訪問をしてもほとんどの方から快く受け入れていただくことができます。そして数人の人とは特に親しくなり、家の中に招かれて茶飲み話ができるようになりました。これはたいへん可能性を多く含む状況です。もちろんあからさまな宗教活動・伝道活動は慎まなければなりませんが、茶飲み話のなかで自然にキリスト教のことなどを話すことができます。市役所の出張所である島田支所の支所長さんに私のホームページ『上野原ラブリ通信』をせっせと配っているうちに、キリスト教に対する関心が深まったようで、折りあるごとに彼のほうから、プロテスタントとカトリックの違いとか、旧約聖書と新約聖書の違いなどを質問されるようになりました。都合のよいことに彼の家が上野原キリストの教会のすぐ近くなので、近々礼拝出席を勧めてみようとも考えています。

 本日の「証詞」(説教)は、「聞き従うべき方」という題でしたが、私自身の問題として、このような「地域牧会の可能性」が開けていることを報告できることを嬉しく思っております。どうぞ皆さんも、それぞれ置かれた環境・状況の中で、神さまが自分に対して、またロゴス教会に対してどのようなことを語りかけてくださるのかを敏感に聞き取って実行されますように祈ります。  

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