神の顧みに動かされて

 

 笠原義久(日本聖書神学校長) 

 057月3日礼拝(ルカによる福音書 71117

1小さな町ナイン、イエスの生まれ育ったナザレから南東の方角に歩いて約三時間ほどのところにあるこの小さな町の門の前で、二つの行進が、運動が全く反対方向の二つの行進が出会った ―― そのように書き始められています。この二つの運動の出会いに続く出来事は、一般に語られるように、確かにイエスの奇跡物語の一つではあります。しかし私たちは、ここでの出来事を単なる奇跡物語としてではなく、慰めの出来事として、私たちの告白の出来事として、その全存在と意志において慰めそのものである福音の言葉として聴き取りたいのであります。

さて、二つの運動の一方はイエスを中心とした弟子と民衆の門の外から内へという運動であり、もう一方の運動は、柩を担っている男たちの後から、泣くこと以外に

術を知らず辛うじて歩を進めている死者の母、一人のやもめを中心

に、門の内から外へとまさに出て行こうとしている葬列でした。

 このやもめの個人的な状況については次のように言うことができるでしょう。この日死んだ彼女の息子は、単に一人息子というのだけではなく、彼女の生計を支え、また彼女の法的な代理人として彼女がその社会生活を営む上での一切を担い一切をカバーしてきた者、つまり彼女にとって一切でした。したがって、彼女の危機は最後決定的なものを失ったことにありました。けれども彼女の危機は、息子の死よりずいぶん以前から進行していたように思います。彼女の夫も、おそらく二十歳になったかならないかの時に死んだのでしょう。ユダヤ社会では、夭折は重大

な罪の結果と見なされていました。この二代続いての早死によって、世間のこの家族に対する断罪は極みに達したと言ってよいでしょう。神の裁きが彼女の上に明らかにされたのだ。彼女は我々とは違う罪人なのだ、と。彼女は、息子の死によっていよいよ周囲の軽蔑と差別の対象となったのです。

葬列に参ずることは、ユダヤ人の間では、功徳として、神に対する自らの功を増し加える業と見なされていました。夕暮れ近くナインの町の門から郊外の墓地に向かう弔いの列 ―― その中には、やもめの悲しみを悲しみとして共に泣く者もいたかもしれません。しかし多くの町の人々は、侮蔑と差別の目をもってこのやもめを取り囲み、その真中に最後決定的なものを自らの人生から持ち運び去られた一人の女が、文字どおりの抜け殻となって歩を進めている ―― 葬列はこのように一種異様なものであった、と言うことができるでしょう。

しかしこの異様な葬列は、この社会の、この世界の縮図であると言わざるを得ません。悲しみ泣く者がより深い悲嘆の底に落とされ、ほんの僅かもっているもの、それなくしては生きていくことのできない最後的なものまで奪い取られる現実、このような者の悲しみをも自らのために利用し尽くそうとする現実。打ちひしがれている者をいよいよ差別の対象とすることによって、自らの存在の優位さと絶対さとを確認しようとする現実 ―― この社会に、民族と民族との間に、国と国との間に渦巻いているのは、このような現実ではないでしょうか。それは、悪霊が入り込んだ豚の群れのように一丸となって、死に向かって行進を続けているようなものだ ―― 私たちの現実を、神は少なくともそのようにご覧になっていると思います。

2さて、ナインの町の門から、この葬列が出て行こうとしたとき、反対の方向から門に向かって進んでくる一群がありました。死に向かいつつある人間の運動に対して、神は全く逆の方向から、外から私たちに相対されるのです。主はこの母親を見て憐れに思い、「もう泣かなくてもよい」と言われた、とあります。ここで「憐れに思った」

と訳されている元のギリシア語は、「内臓」「はらわた」という根本的な意味を持っています。この「はらわた」が「心」という意味になり、激しく動く心という意味になります。私たちも非常に悔しい思いをしたときや怒ったとき、「はらわたが煮えくり返るようだ」と言います。また実際心の動きは内臓と関係があるようです。激しい心の動き、人の困難あるいは悲しみを見て平静ではいられない、そういう深い共感あるいは共鳴を表わし、熱愛という意味にもなり、憤激という意味にもなります。それを動詞にした言葉も、「深く憐れむ」とか、あるいは「憤激して激しく心を動かす」という意味になります。群衆が飼う者のない羊のように弱っている姿を見て、心を激しく動かすイエス、ラザロの死の場面で墓を前に激しく心を動かすイエス、ここでは、自らがもっている満ち溢れるばかりの善きもの、憐れみの心を分ち与える主イエスではなく、内臓に至るまで憐れみによって動かされる主イエスの姿が写し出されていると言ってよいでしょう。

「もう泣かなくともよい」、イエスは激しく心を動かしてやもめに語りかけます。イエスは、彼女の涙を禁じてはいない。また嘆き悲しむことを叱っているのではない。イエスは彼女に次のように語っているのではないでしょうか。「あなたが失ったと思っているもの、それは決して最後究極的なものではない。私の言葉こそが、あなたの痛みを癒し、あなたをもう一度いのちへと連れ戻す最後究極的なものなのだ。いのちであり、慰めそのものである私が語っているのだ。だから泣くことはない」。これは本当に慰めの言葉です。神なき者、神の罰を受けていると見なされている者、神から隔てられていると見なされ、差別されている者、このやもめのような者の嘆きに激しく心動かされ、そのような人々と一つになり、そのような人々の叫びを自分の叫びとしてこの地上を歩んだ主イエス。人々の痛み苦しみをことごとく自らに引き受け十字架に付けられたイエス。この十字架の主が語る言葉ゆえに真の慰めなのです。私たちは、イエスの「はらわたを激しく動かす憤激」の極みである十字架にこそまことの慰めがあること、パウロがコリントの信徒への手紙二で語っているように「キリストの苦難が私たちに満ち溢れているように、私たちの受ける慰めも、またキリストによって満ち溢れている」 ―― そのことを、ナインの町のやもめと共に心に深く刻みつけたいのであります。

3 イエスの十字架が人間の悲惨に対する神の答えの全部であったなら、ナインの町の物語は、「もう泣かなくともよい」で終わったでしょう。イエスの十字架では不十分だというのではありません。十字架のイエスは私たちによって決定的な慰めです。私たちの外側から、神の憤激に動機づけられ一方的に与えられた慰めです。しかし神は柩の中の若者が死の手に渡されていることを、若者が虚無に服していることをよしとはされなかった。柩に決然として手をかけ「起きなさい」と語りかけ給うイエスは、「泣かなくともよい」と語ったときと同じ憤激に心動かして語っています。そしてこの言葉と行為によって、イエスは、この死者の蘇生が、徹底した神の憐れみの意志であり決断であることを語っているのではないでしょうか。悪霊が入り込んだ豚の群れにように一丸となって死に向けて行進を続けている根源的な私たちの悲惨は、イエスの十字架によって余すところなく担いとられました。しかしあの暗き力、すなわち死はなお痕跡を留めています。イエスの死からの甦りは、この死に決定的なとどめを刺す神の私たちに対する憐れみの行為であることを聖書は告げ知らせています。十字架の慰めは、連続して究極的な復活の慰めに至ります。その慰めにおいて、人間は神の似像に初めて与かる者とされ、神に栄光を帰する者とされます。このことは逆に、神は私たちを、慰めを必要としまた慰めに値する被造物として創造し給うた、それが神のご意志であった、と言うことができます。

 聖書は、神のこの憐れみの行為に対する人々の反応を簡潔な言葉で伝えています。人々は皆恐れを抱き、「神はその民に心をかけてくださった」すなわち「顧みてくださった」と言って神を賛美した、とあります。イエスの復活の目撃証人が、言葉もなく身を震わせて

ただ恐れたように、イエスに従っていた群れも、また墓へと向かっていた群れも、いわば生と死という相対立する二つの方向を目指していた二つの群れが、この出来事を通して一つとされ、共に身を震わせ一つの告白へと導かれたのです。「神はその民を顧みてくださった」。「顧み」とは、「他者の定めあるいは運命に責任的にかかわりこれを分かち担うこと」です。これは、私たちが神の憐れみの行為に対しなすところのぎりぎりの応答、精一杯の告白でしょう。

4 2000年前、ナインの町の門に記された、この「神の顧み」の跡は、今もその跡を留めています。それは今も生きて働き給うイエスの跡であり、命の跡です。それは郊外にある墓の前で失せてしまう跡ではなく、墓の中にまで続いています。私たちの教会も、まさにこのナインの町の門に立っています。                             

あの二つの運動が出会うところに立っています。私たちは、あの異様な葬列のような、理不尽と不条理と虚無に満ちた現実を携えここにやってきます。この関門がなければ死へとなだれ込んでしまうような危機を携えつつやってきます。しかし、もう一つの運動は、このような私たちをいち早く認め、私たちのために心を動かしてくださいます。徹底した憐れみをもって受け入れ命へと立ち返らせてくださいます。そこでの私たちの応答は、「神はその民を顧みてくださった」という信仰告白しかあり得ないでしょう。そしてこの告白を為した者は、既に印されているイエスの跡を辿り、もう一度自らが来た現実へと帰るよう促されています。心動かない者としてとどまるのではなく、イエスの動き給う心、熱愛が私たちの心を溶かしてくれたように、心動く者として、他者に心動く者として帰るよう促されているのではないでしょうか。

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