愚かさの力

09.3.29

山本 護牧師

(八ヶ岳伝道所)

★聖書マルコ103234 イエス、三度自分の死と復活を予告する。

一行がエルサレムへ上がって行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

これまで十数年、私の教師籍を何も言わずにここに置いてくださったこと、ありがとうございました。主イエスの御受難を思い起こす本日の礼拝へ、こうして招かれたことで、ほんの少しであっても感謝の気持ちをお返しできること、本当にありがたいです。

 今日の聖書箇所は、イエスが自らのことを語った受難予告。受難予告はこの時が三度目。一度目は<※8:31>。二度目は<※9:31>。そして今回が三度目だ。

 <※10:33~34>。ここで言う異邦人とは支配者であるローマ人。そしてローマ人の力に屈しているのが、祭司長や律法学者という信仰の権威者たち。それでは、この信仰の権威者にイエスを引き渡すのは誰であろうか。

十字架で処刑される前夜のこと、<※14:18>。すなわち、親しく交わっていた直弟子の一人が引き渡すのだと、イエスは言った。よく知られているように、この裏切りの役はイスカリオテのユダによってなされるが、少し見方を変えてみれば、処刑される十字架を引き寄せるために、誰かにこの役が与えられた、と読むこともできる。

イエスを引き渡す段取りを担ったのは、何もイスカリオテのユダ一人だけに限らない。最初の受難予告がなされた時のことを思い起こしてみよう。

8:31>がその予告だが、その直前、<※8:27~30>。ペトロは「あなたはメシアです。」と答えている。つまり「キリストだ、救い主だ」と言い当てている。このように、イエスは救い主だということが明らかになった時点から、受難は始まった。このことに、よくよく注意しておきたい。

8:27〜>、イエスは弟子たちに、「人々は私のことを何者だといっているかね」と訊ねた。すると弟子たちは、「人々は、洗礼者ヨハネの再来だとか、エリヤの再来だと言っています」と答えた。するとイエスは、「それでは、他人が言うことではなく、君たちは、私をいったい何者だと思うのかね」、「君たち自身の考えを聞きたいのだよ」と訊ねられ、ペトロは自らの責任と決意によって、「あなたメシアです。キリストです」と答えた。

正しい答えであった。つまり、答えが正しかったがゆえに、受難は、この直後から、次第に明らかになっていく。そして、奥へ踏み込めば踏み込むほど、秘められた秘密が明らかになっていく。キリストの秘密を明らかにした弟子たちの働きもまた、十字架を引き寄せる出来事であった。

 ペトロが「あなたはメシアです」と答えると、イエスは、自らの受難予告を語るわけだが、この直前には、盲人の視力を癒す記述が置かれている。<※8:23~24>。これに対し、三度目の受難予告の場合は、その直後に盲人の視力が治癒する記述が置かれている。<※10:5152>。

受難予告と、視力の治癒の記述とが、並べられて記されている。マルコ福音書は、このように、受難の予告と、視力を治癒させることを並べることで、いったい何を言おうとしているのであろうか。聖書を読む私たちに、このような問いが投げかけられているのだ。この問いを私たちはどう受け止めるだろうか。

 <※10:32>。これまでのイエスの言動やふるまいが、エルサレムの権威や権力をいかに逆撫でしていたか、弟子たちは恐ろしいくらい分かっていただろう。

律法の基準によって、神の恵みから外れるはずの人々に対して、イエスは「君たちは、神から愛されている。かけがえのない存在なのだよ」、と徹底して語り続けた。差別され、排斥され、卑屈になって小さくなっていた人々は、「俺たちは、このままで神に愛されている。何てすごいことなのだ。神様ありがとうございます」と、堂々とふるまい始め、それまでの古い秩序が揺らぎ始めた。

いつの時代も、どんな世界でも、愛ほど危ないものはない。神の愛は終末的で、新しくなり続けることを求める。そのことによって、愛は、現状を維持しようとする力と摩擦を起こす。イエスは、迫害に脅える弟子たちを呼び寄せて、受難を受ける自分の行く末をはっきりと告げた。<※10:33>。そして、そのすぐ後に、盲人バルティマイの目を癒す出来事が続く。

マルコ福音書に、受難の予告と視力の治癒が並べて置かれていた理由は、それがイエスの思いでもあったからだろう。つまり、「これから起こるであろうイエスの受難を、しっかりと、自分の目で見届けなさい」ということ。これは、弟子たちに求めたことであり、私たちに語りかけていること。すなわち、イエスが私たちのために苦しむということを、誰かから教えられるのではなく、自分の目で見て、自分で感じて、自分で判断し、自分で答えを探しなさい、ということなのである。

明確な決意と、覚悟をもって、イエスはエルサレムに向かい、弟子たちにもその姿をしっかりと見届けることを求めた。しかし弟子たちはどうであったか。<※10:35~38a>。弟子としての地位争いに、戦々兢々となっている。何という弟子たちであろうか。ヤコブやヨハネだけの問題ではない。ペトロだって同じようなものであった。

<※8:31~33>。「あなたはメシアです(8:29)」と、正しく答えたばかりであるにもかかわらず、その直後には、「先生、殺されるなんて恐ろしいことを言わんでくださいよぉ」と言い、イエスに厳しく叱責され、馬脚を現してしまった。

弟子たちは、これまでの安定した暮らしを棄てて、イエスにつき従って来た。彼らなりに真剣な、若者たちではあった。ところが、弟子たちの期待とイエスの進む方向は違っていた。弟子たちは、イエスが、新しくなる秩序の、王のようなメシアになってほしい、と願っていた。だから、新しい秩序が建てられた折には、少しでも高い地位につきたいと願った。また、イエスが「自分は殺される」と告知すれば、「とんでもないこと」と言って、イエスの進む方向を否定したりもした。

弟子たちには、イエスの真実が分からなかった。「イエスはメシアである」という、神の国の奥義を言い当てたにもかかわらず、真実は分からなかった。自分の目を見開いて、その受難をしっかり見届けることを求められたにもかかわらず、イエスの真実を、真っ直ぐに見ようとしなかった。本当の問題は、弟子たちのことではない。私たちはどうなのか、皆さんはどうなのか、ということに焦点が当てられているのである。

私たちは、イエスや神の思いがどうであるか、知っているだろうか。私は、神の思いを知らない。聖書によって、その輪郭を、ぼんやり予測している程度である。その頼りない予測に立って、今こうして語っているのだ。

私は今、神の真実を語っているかどうか、心細い。しかし、こうして説教できるのも、キリストの聖霊が働いてくださり、皆さんにそれが届けられるだろうという期待があるからなのだ。

また皆さんにとっても、聖霊に助けられているがゆえに、聖書の真実が皆さんの内で響くのである。大変失礼ながら、御言葉を受け入れるために、皆さんの経験や、理解力や、人生観は関係ない。それ以上に、御言葉を取り次ぐ私の能力や、センスなど、一切関係ない。

人間としての手柄や、能力や、個性など、教会において、御言葉を聞く上で、何の条件にもならない。このことは、山本三和人先生が、皆さんにくり返し語られたことであろう。ロゴスにいた数年間、私は、三和人先生の言葉を、一貫してそのように聞いて来た。そしてまた、三和人先生の言葉は、その背景にあったカール・バルトによる聖書の読み方でもある。

私たちは、弟子たちのように愚かで、無理解な者なのだ。ところが、私たちは弟子たちのように、イエスの受難に同道を許された者である。こんな無理解な私たちが、イエスの受難について行くことができる。これは、すごいことだ。こんな私たちが、受難と十字架を見据えるように求められている。そして、そのことが可能なのだ。すごいことだ。なぜなら、私たちは、イエスの奇蹟によって目を見開かされるからだ。視力を快復させられた盲人のように、私たちは、イエスの奇蹟に与ることを許された者なのである。

私たちは、イエスの受難を知り、やがて十字架の意味と、復活の意味も知らされるだろう。その意味とは、イエス・キリストによって「君はそのままで、愛されている、そのままで認められている、そのままで大切にされている、そのままで赦されている」という、途方もない愛のことである。

私たちの人生にとって、イエス・キリストの愛こそが、もっとも重要なこと、もっともかけがえのないこと、もっとも深いこと、もっとも豊かなこと、なのである。

分かっていてイエスに同道するのではない。その全体は分からないまま、私たちはキリストの業に巻き込まれていくのだ。

私たちは、弟子たちのように、度々間違いを犯す。勘違いばかりをしている。ところが、イエスが盲人たちに視力を与えたように、あなた方に視る力を与え、イエスの苦しみの場に立ち会うことが求められている。

あなた方は、あなた方のために投げ出されたイエスの苦しみを、自分の目で見ることができる。自分で聞くことができる。自分で感じることができる。間違いを恐れてはならない。たとえ間違ったとしても、イエス・キリストは、あなた方に、自分で判断し、自分で決断することを求めておられるのである。

ロゴス教会の未来が、ダイナミックに変化し続けるキリストの業に巻き込まれますように。そして、その折々、皆さんがキリストの新しい渦を受容できますように。古い革袋としてではなくて、新しい葡萄を入れて、新しい酒を醸す、新しい革袋になりますように。

今、私が遣わされている八ヶ岳伝道所も、キリストに支えられ、未来に向かって押し出されている。変化し続けるそんなキリストの終末において、皆さんも、私も、キリストと共に生き、新しい世界を見届けようではないか。 祈 

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