支えあって生きる
 
06.4.30(日)礼拝証言



大津
健一牧師(日本クリスチャンアカデミー事務局長)

マルコによる福音書2章1〜12節「中風の人をいやす」


今日のみ言をとうして信仰とは、私たちの生活と深く関わっていることを学ぶことができます。単に頭の中で神について考えたり、神への信仰を心の中に閉じ込めたりすること、そういうものではなく、私たちの生き方や生き様に深く関わっている問題であることを知ることができます。

最近、日本いのちの電話・常務理事の斉藤友紀雄先生からお話を伺う機会があっていろいろ考えることがありました。

いのちの電話は、心の問題で悩んだりした人たちに電話相談を行っている団体です。今日、日本では98年以来、連続7年間、3万人以上の自殺者が出ています。先進国第一位、斉藤先生は自殺を試みる人への接し方でもっとも大切なことは、原理原則論を語るのではなく、どれだけその人の心に接することができるかどうかにかかっていると言われています。

問題をもって苦しんでいる人に寄り添う人がいるかどうかは、苦しむ人の人生を左右するぐらい大切なことだと言えます。

今日の聖書に記されている箇所からは、一人の中風の人と一人の中風の人に寄り添う4人の男の姿が浮かびます。

この四人は家族なのか親戚なのか、他人なのか、分りません。

3節、「中風の人」(paralytic)は脳卒中の後遺症のため片まひの状態で、長い間、中風で苦しんでいたことが想像できます。
この人を苦しめたのは、中風
という病気だけではありません。当時の社会では、この人がこんな重い病気にかかったのは、この人の“罪”のせいだとかんがえられました。

重い病気や持病で苦しむ人は、もしそばに寄り添う人がいなければ人生の谷底に突き落とされるような経験をしていたことになります。

肉体的な苦しみだけでなく、重い病気や障害を患っている人々は、社会的にも宗教的にも制裁を受けることになります。

ヨハネの福音書の9章1〜3節に、“うまれつきの盲人”の話がありあます。

しかし、この中風の人がなおも希望をもって生きることができたのは、戸板に寝かせてでもこの中風の人をイエス様のもとへ連れていこうとした、少なくとも4人の人がいたからだと言えます。
先ほど紹介させていただいた斉藤先生は、「自殺防止対策有識者懇談会」が2002年に厚生労働省に提出した提言の最後に、人間を孤立させないこと、また互いに助け合い生きる「共助の時代」を創生し、その体制づくりをしょうと訴えており、斉藤先生は先ほど述べたような指導をしておられます。人の心に寄り添うということは、そんなに簡単なことではありません。

今日の聖書では、4人の男は屋根をはいでまでして、イエス様のところへ連れてゆきました。困難を越えてゆく力とか勇気がいります。

自分が力を出し時間を出し、また相手に対する忍耐や寛容が求められます。そしてイエス様は、この4人の男たちのこのような行いを見て「信仰」だと言っておられます。

他者のために自分のもつ何かを差し出す。たとえば募金であるとか、ボランティア活動であるとか、相談相手になるとか----それが愛の行為だと言えます。

神と私との交わり(縦)、隣人との交わり・隣人愛()、その接点に信仰があります。
イエス様は4人の行為を見ながら、中風の人に深い愛のまなざしを向けてお
られます。この目線が大切です。そして中風の人に、「あなたの罪は許される」と言われました。
中風の人の心を縛りつけている「罪」からの解放の宣言がここにあります。

ここで大切なことは、病気、障害をもつことが罪のせいだという当時の一般的な考えからの解放です。

「そして自分の床を取り上げて出ていった」 そして再び希望をもって生きよう

あなたの病気はあなたの罪のせいでも何でもないという宣言がここにあります。とするこの中風の男から、逆に4人の人が力を得る、励まされる。

共に支え合う関係とは共に生かし合う関係でもあります。

人をだましたり、人を傷つけたりすることが多発する時代の中で支え合う関係、生かし合う関係をつくることが、主イエス・キリストに従う者として求められていると言えます。

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