いのちに生きる

521日(日)証言 聖書:マタイによる福音書5:43-48

大津 健一牧師 (日本クリスチャンアカデミー事務局長)

私たちが住む社会には、大きな川のような流れがあるように思います。
その流れにうまくのって生活しているときはいいのですが、その流れからはずれたり、その流れに逆らって生きるときにいろいろな批判を受けたり、正しいと自ら信じたことを主張したり、生きたりすることはそんなに容易いことではありません。いや、とっても勇気のいることです。
日本キリスト教会では、今日の聖日からはじまる一週間をアジア・エキュニカル週間と定めていますので、私の今日のみ言をとうした証言も、アジアのことを考えながらお話をさせていただこうと考えています。

イエス様が生きられた時代にも、律法学者やユダヤ原理主義者といわれるファリサイ派の人々が、社会の主要な流れを形成していました。また、一般の民衆も神の教えだと信じる律法の教えに忠実に生きていました。
福音書にはイエス様と律法学者やファリサイ派の人々との度々の衝突の記事が記されていますが、その時代に身を置くとき目に見えた現実は、どちらが正しく、どちらが間違っているか、そんなにはっきりと見えたわけではありません。

現実にはその社会に身を置いて生きるとき、なかなか本当のものを見ることができません。そして実際には見ていても見ず、聞いていても聞いていないようなあり方をしてしまうのが私たちの姿です。

イエス様はユダヤ人の聴衆に向けて43〜44節「汝の隣人を愛し、敵を憎め」と命じられているが、「敵を愛し自分を迫害する者のために祈りなさい・・・」勿論この証言は5:1からはじまるイエス様の「山上の説教」の中の一つの言葉をとうして伝えられているものです。

43節の「隣人を愛し」は「自分自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という旧約聖書のレビ記19:18(P192)の引用です。当時のユダヤ人ならば丸暗記をしているほどの言葉です。

当時のユダヤ教会は、私たちが考える以上に思いやりのある社会でした。

ユダヤ社会に寄留する外国人の人々に対してももてなすことが書かれています。(レビ記19:33・P193
「寄留者を自分たちのように愛する」・・・当時のユダヤ社会は、私たちの住む21世紀の日本社会よりも、もっとやさしい社会だったかもしれません。しかし、当時のユダヤ社会にも限界がありました。外国人も一年以内に割礼をうけ、また律法遵守の義務すべてを受け入れてユダヤ人の宗教共同体に入ることが条件でした。 即ちユダヤ社会のワク組みの中にいることが前提で、ユダヤ社会のワク組みの中にいる人だけが、ユダヤ人にとって隣人であり、外国人もユダヤ人と同等の権利を認めるということでした。 また、もう一つの言葉、「敵」についての考えですが、ユダヤ教の律法の教えの中で「敵を憎め」という直接の教えがあったわけではありません。 しかし、自分たちの信仰を基準にして他の民族やユダヤ人と結婚した人たちを、異邦人として「神なき民」の生き方として切り捨てるそういうあり方をしました。

 障害者、ハンセン病、売春婦、取税人=罪人という考えは、これはユダヤ社会の中心にいて神の救いは自分たちのためにあると考えた人を民族的排他主義へと導いたと言えます。イエス様が闘われたのは、そこのところだと考えます。

「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」という神から与えられた教えは、その狭い民族的枠組みに押し込まれる教えではない。民族や国境を越えていくものだと教えておられます。

神の愛は民族に限定されるものではありません。私たちが考えている以上にもっと広く、もっと深い内容をもったものです。

「寄留者をもてなす」ことについても同じです。今日、私たちの社会で私たちは、寄留者である外国人を煙たがっている現実を多く聞いています。この社会がいかに冷たい社会であるかは、外国の人々の立場に立たねばわかりません。私たちは外国人に対して“監視社会”、“Watch’s Society”をつくりつつあります。「不審なものや不審な人をみかけたら警察に通報してください」

「愛する」とは自己に中心を置くのではなく、他者に中心を置くのです。

私たちキリスト者は上面の言葉で生きるのではなく、神の子として一人ひとりの命を大切にする生き方を求めていくこと、いのち につながる言葉を語り、いのちにつながる生き方をする。

イエスの「完全なもの」とは全体であることをさします。その中で主とともに生きるのです。