福音によって破る

ルカによる福音書14章1−6節

07.8.26

大津健一牧師

(日本クリスチャンアカデミー所長)

あるカトリック信徒の知人の出版記念会に招かれ出席しました。いつものごとく出席者からお祝いの言葉が述べられたのですが、出席者の一人、上智大学名誉教授のボネット先生のところで、同じカトリックのシスター広田さんからボネット先生の紹介があり、「ボネット先生は、福音によって指紋押捺を拒否され、拒否している間は、日本からの出入国が認められなかった人です」と紹介されました。私は、「福音によって指紋押捺を拒否された」と言う広田さんの言葉に深い感動を覚え、今日の証言題にもそれを使って、「福音によって破る」とさせて頂きました。1952年、在日朝鮮人を取り締まる目的で作られたと言われている外国人登録法によって、日本に1年以上在住する外国人で、16歳以上の人は、指紋押捺や外国人登録証常時携帯の義務が課せられました。そして指紋押捺を拒否することは、法律を破ることですから、犯罪者になることを意味していました。1980年、在日朝鮮人の韓さんが指紋押捺の強制は人権侵害であり、不当であると異議をとなえ、指紋押捺を拒否されたことから、指紋押捺拒否運動が全国に広がり、在日大韓基督教会の兄弟姉妹の中からも指紋押捺拒否をする人々が次々と現れました。ボネット先生は、ポルトガル人で神父でしたが、在日朝鮮人の指紋押捺拒否運動に連帯して、自らも指紋押捺を拒否され、2000年に外国人登録法が改正され、指紋押捺制度が撤廃されるまで拒否を続けられました。シスター広田は、ボネット先生のこの闘いを「福音によって指紋押捺を拒否された」と言われました。当時指紋押捺を拒否することは、法律を破ることでしたが、イエス・キリストの福音はボネット先生に、たとえ法律を破っても、抑圧され、苦しみを受けている人々と共に在ることを促したと言えます。

私は、今日の聖書の中でもイエス様から同じメッセージを聞きます。

 イエスの時代のユダヤ人たちは、律法に忠実に生きることが、神に従うことであると考えました。そしてその律法の中の大切な戒めに安息日を守ることがありました。安息日は、モーセの十戒の第四戒にあたるもので、人々は6日間働いて、7日目に休息し、労働しないで過ごすように命じられていました(出エジプト記20章8−11節)。7日目に自分のすべての仕事をストップして、神の前に何も自己主張するものを持たない者として立つことを意味していました。安息日は神と私の正しい関係を回復するときでした。そして律法には、安息日を守らなければ、必ず死刑に処せられる(31章14節)とまで決められていました。安息日を守ることが当時のユダヤ人にどれだけ大切なものであったかが分かります。また、紀元前587年、バビロニアによってエルサレムを占拠され、イスラエル民族がバビロニアに囚われの身となったバビロニア捕囚時代以降は、国を持たない民として、より厳しく律法の規定を守ることによって民族のアイデンティテイーを保持しようとし、より細部に亘る律法の取り決めを作りました。

モーセの十戒によって示された安息日規定は、奴隷や家畜に、そして寄留者(外国人)に対しても適応されるべきものでした。そこには、すべての人や家畜のいのちまでも尊ぶ思想が見られます。また、ユダヤ民族の枠組みを越えていく思想が見られます。

 しかし当時のユダヤ人は、宗教的熱心によって安息日を守るため、細部に亘る厳格な規定を作り上げました。たとえば、安息日に雌鳥が生んだ卵は食べられない。何故ならその雌鳥は、卵を生むという労働をしたことになり、安息日に違反したことになる。故にその卵を食べると安息日違反である、とまで考えました。

 律法に忠実であろうとする宗教的熱心は、いろいろな制約を設け、人々をある一定の枠に閉じ込め、本当に大切なことを見失ってしまう危険性を作り出しました。自分たちこそ神の戒めにそった正しい生活をするものであると言う自己義認に陥り、神を愛し、隣人を愛することが一番大切な戒めだといいながら、実際はその枠の外にいる人々を排除しました。イエス様が、当時のユダヤ社会から排除された重い病気に苦しむ人や障害を負っている人、売春婦といわれた人と共におられたのは、神の救いは、これらの人々にこそもたらされていると言うメッセージ(福音)がこめられています。

 イエス様は、安息日に水腫を患って苦しみ、助けを求めている人を前に、その水腫の人の病気を癒されました。イエス様にとって、人を癒すことが安息日の規定に違反するかどうかよりも、今、目の前にいて水腫で苦しむ人を癒すことが最も大切なことであり、それは神の御心にかなうことであると考えました。

律法を守ることに誰よりも忠実だと考えたファリサイ派の人の目は、イエス様の行為が律法違反かどうかに注がれています。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」といつも言ってきたのに、目の前にいる隣人(水腫の人)には目もくれません。しかしイエス様の目は、病気で苦しむ人に、その人のいのちの問題に注がれていました。そしてファリサイ派の人々から、安息日に病人を癒すことは律法違反だと厳しく攻撃を受けることを覚悟しながら、イエス様は、この水腫で苦しむ人を癒されました。

 私たちもまた、私たちのいのちを生かす主の福音に立って、何が神の御心であるかを謙虚な思いで聞きながら、日々の歩みをなすことが大切だと教えられます。

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