真理はわたしたちを自由にする

 ヨ ハネによる福音書 831

08.1.20

大津 健一牧師

(日本クリスチャンセンター所長)

今日の証言題は、聖書にあるイエス様の言葉「真理はあなたたちを自由にする」からつけさせて頂きました。イエス様の言葉を聞いていた人々は、当時の普通のユダヤ人でしたから、きっとイエス様は、これらの人々が理解できる言葉で話されたのだと思います。当時のユダヤ人なら誰でもそうでしたが、ユダヤ民族こそが神から選ばれた民族であり、アブラハムの子孫であるという誇りをもっていました。その人々の中にイエス様の話を聞いて心を動かされた人々がいたようですし、しかし一方では、そのような人々の存在を手放しでは喜んでおられないイエス様の姿も、今日の聖書の中で読み取ることが出来ます。

  先日の朝日新聞の朝刊 ( 1 8日付)に村上伸一さんが「エルサレム」というテーマで書かれた記事が目にとまりました。記事の見出しには、「ユダヤ人だけ 民主主義」と書かれていました。今日のイスラエル国民の7割がユダヤ人、 2割 がアラブ系の人々です。アラブ系の人々は、 1 9 4 8 年 の イ ス ラエ ルの 建 国のときに追い出されずに残ったパレスチナ人の子孫だそうですが、イスラエルの民主主義はユダヤ人だけに当てはまるのであって、アラブ系市民には当てはまらない現実を村上さんは指摘しています。

私は、この記事を読んで、イエス様の時代のユダヤ人たちが「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」( レビ記 19 118節 )という律法の教えを、ユダヤ民族の枠の中だけで理解していたことを思い出します。イエス様は、「善いサマリア人」の話(ルカ10  章 25  37節)を通して、隣人を愛することは、わたしたち自身の在りかたが問われることであり、民族の枠を超えてもそうあるべきことを教えておられます。

 これらの問題は、今日の聖書におけるイエス様の言われていることと同じですが、わたしたち信仰者が陥りやすい誤りとして考える必要があります。
さてヨハネ8 3 2 節のイエス様の言葉「真理はあなたたちを自由にする」は、何か知的探求の中で得られた結論ではなく、私たちの生き方や在り方に関わる実存的言葉として理解する必要があります。ヨハネ146節では、イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰でも父の元へいくことが出来ない」と語っておられます。この言葉から「真理」とは、イエス様のことであり、この方を通してのみ私たちは神とつながることが出来ると理解することが出来ます。

今日の聖書の中で、特に重要な言葉(キー・ワード)は、31節の「私の言葉にとどまるならば本当に私の弟子である」の「とどまる」(ギリシャ語「メイネテ」)という言葉です。「とどまる」には、「持ちこたえる」、とか「耐える」という意味が含まれています。高橋三郎先生は、「とどまる」という言葉について「ヨハネ伝講義」の中で、「頭の中で理解し同意することだけではなく、全生活を挙げて持続的に従って生きる」ことだと言われています。「とどまる」とは、単に信仰の殻に閉じこもって自己保身的に生きる消極的生き方ではなく、私たちが信じているところを生きるという積極的内容を伴うものです。そのように生きるときに、私たちは、神の働きに触れる経験をいたします。そこに私たちの人生において求めてやまない「真理」との出会いがあります。

また、もう一つの言葉、「真理はあなたがたを自由にする」について考えてみたいと思います。現実の私たちは、自由に解放された人間として生きているわけではありません。いつも何かに、それは家族、仕事、人間関係、日常生活などですが、それらに縛られて生きています。この点において、私はパウロがローマ書 7章18〜20
節で、「わたしは、自分のうちには、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。

善をなそうとする意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もしわたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなくわたしの中に住んでいる罪なのです。」という言葉に共感を覚えます。

わたしたちは様々なしがらみの中で生きながら、そして善をなそうと願いながら、そうはできずに、人を傷つけたり、人を欺いたりして罪を犯してしまう弱さを持っています。「罪」という言葉の原語(ギリシャ語)は「ハマルティア」(「的外れ」の意)という言葉が使われています。
弓を射て的をはずした生き方をしながら、あたかも的の中心を射ているように振舞っているわたしたちの在り方を、聖書は「罪」と考えています。

 毎年の終わりに日本漢字能力検定協会がその年をイメージする漢字をインターネットなどで募集し、それを清水寺の管主が書道で大書することが恒例となっていますが、2007年をあらわす第1位に選ばれた漢字は「偽」でした。昨年は、食品偽装や消えた年金、防衛省汚職問題などがあり、誰もが同意する言葉でした。そしてこの言葉は、今日の人間社会の現実を投影する言葉でもあると言えます。偽りの中にいながら、もしそれがばれなければ善とする生き方の中に、わたし達もどっぷり浸かりこんでいるのではと思われます。

宮芳平(1893年〜1971年)「ユダの席」

新潟出身で東京芸大を出られた画家宮芳平さん(1893年〜1971年)の作品に「ユダの席」があります。宮さんは、イエスと弟子たちとの最後の晩餐の光景を描きながらユダの席を空席にして描いています。この作品は、この作品を見るわたしたちがユダの席に座るかもしれないことを暗示しているものと考えられます。この作品が暗示するように、わたし達は決して強い人間ではありません。いやむしろユダのように罪を犯すかもしれない弱さを持ちながら生きている弱い人間だといえます。

 その意味において先程申し上げましたイエス様の「わたしの言葉にとどまる」ということの大切さが再び浮かび上がってきます。様々な罪の誘惑の中にいるわたし達が、イエス様の言葉に踏みとどまって生きるときに、わたし達は真理なる神に触れ、罪の奴隷から解き放たれる経験をすることができると言えます。

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