「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」 (08.3.16)

聖書:マルコによる福音書153341

大津健一牧師(日本クリスチャンアカデミー所長)

聖書によればイエス様は、紀元30年ごろのユダヤ教の過越しの祭りの日(共観福音書)か、あるいはその前日の金曜日(ヨハネ福音書)に、ローマの総督ポンテオ・ピラト(在位26年~36年)によってローマ帝国の死刑の形である十字架刑によって処刑されました。処刑日が金曜日であったことは確かだと言われていますが、十字架に掛けられたその日を特定することは出来ません。通常十字架の処刑では、処刑される者は自分がかかる十字架の横木を背負って刑場へ連れて行かれました。

また、十字架に付けられる前に兵士によって何度かムチ打たれました。兵士のムチには鉛玉や羊の歯が取り付けられていて、ムチが打たれるたびに皮膚が引き裂かれたといわれています。また、あまりのすさまじいムチ打ちによって絶命する囚人もいたと伝えられています。通常縦木にあたる部分は、あらかじめ刑場に立てられていました。イエス様の場合は、地上で横木に手首のところを釘で打ち付けられ、縦木に添う形で複数の兵士によってロープで吊り上げられたと考えられます。

厳密には十字架の形ではなく、T字型であったのですが、イエス様の場合は、恐らく縦木の上部の罪状書きに「ユダヤ人の王」(15章16節)とあったため、十字架の形をしていたといわれています。また、十字架に掛けられた囚人が死ぬまでに、数時間かかったといわれており、イエス様の場合は、息を引き取られるまでに6時間かかったことになります。昼の3時に「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(34節)と大声で叫ばれて絶命されたとあります。これは『わが神。わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味ですが、マルコは、この部分だけアラム語でわざわざイエス様の言葉を記録し、マルコの時代のギリシャ語を話す人々のためにギリシャ語の訳を付けています。

今日の私たちにとって、果たしてイエス様が十字架上でこの言葉を語られたどうかは定かでありませんが、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉は、旧約聖書詩篇第22篇2節の言葉とよく似ています。恐らくマルコは、この言葉を通してイエス様の十字架上での叫びの深い意味を私たちに伝えようとしたのだと考えられます。

本日の説教準備のためにヘルムート・ゴルヴィツアーの(『イエスの死と復活―ルカによる福音書による―』岡本不二夫・岩波哲夫訳、新教出版社 1962)を読みました。ゴルヴィツアーは、ナチスへの抵抗運動を続けたマルチン・ニーメラー牧師が、ヒットラーによって強制収容所へ送られたあとをついで、ベルリンのダーレム教会の牧師となり、1938年から40年にかけてルカ福音書に基づいて連続講解説教をしました。その説教がまとめられ戦後出版され、日本語でも出されたものが先ほど紹介した本です。

日本版への序文の中でゴルヴィツアーは、「もしも人間が、当時の同じような切迫した状況にいるならば、聖書の一つ一つの言葉は比べようもない力と現実性を持ってくるものである」と述べています。ナチス・ヒットラーの悪魔的力が荒れ狂う中で、神の子イエス・キリストが十字架の苦しみを負われたことは、深い絶望の中にいる人々に、主が共に人々の苦しみの只中にいて下さる確信を与えました。信仰とは、私たちの絶望の中にあって、神の希望を与えるものだといえます。

イエス様は、助け手のない状況の中で、なお「わが神、わが神」と祈っておられます。神を捉えることの出来ない時代の中で、神が見えない状況の中で、私たちには、なお「わが神」と依り頼む場があることを示しています。

 『現代社会の悲しみといやし』(日本福音ルーテル神学大学教職セミナー編、キリスト教視聴覚センター発行 1995)の本の中でルーテル神学大学の架来周一先生が、信仰を持つ人になぜ悪いことが起こるのかという人間の不条理の問題を取り上げ、ハーバード大学教授で社会心理学者オルポートの二つの信仰形態の考えについて紹介されています。

①は、私の信仰のゆえに私は幸せな生活が送れている。?オルポートはこれを「外発的宗教志向性を持った信仰形態」と言っています。

②は、答のない不条理の世界の中で生きながら、『私』は神から愛されていると考え『私』を『神に』明け渡す信仰のあり方?オルポートはこれを「内発的宗教志向性を持った信仰形態」と言っています。

オルポートは、①の信仰のあり方だと不条理の世界の中では適応できない。それに対して②のような「信仰を持つとき、はじめて包括的態度が生まれる」と言うのです。

このオルポートの指摘は、パウロがⅡコリント書4章8節で「わたしは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方にくれても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちはイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。」(4章8~10節)という言葉と同じ考え方を示すものとして理解できます。

私たちは、イエス様の十字架の孤独と苦しみと死を通して絶望が絶望で終わることなく、私たちが絶望の淵にあっても、なお神への信頼に立って希望を持って生きることが出来るようにさせて下さる方が私たちと共におられることを教えています。そしてさらに今日の聖書は、イエス様を殺す側にいたローマの100人隊の隊長が、「本当に、この人は神の子だった」(39節)と語ったことを伝えています。このことは神の働きが、私たちの思いや予測を超えてなされていくことを示しています。

この時代の中で、神の働きをしっかり受け取っていく信仰を持つことが大切だといえます。

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