いのちのパン

08.7.20

大津健一牧師

(日本キリスト教協議会総幹事)

ヨハネ6:41−51  ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終りに日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世をいかすためのわたしの肉のことである。」

7月、洞爺湖で開催されたG8サミットは、丁度潮の満ち引きと同じように、先進国首脳と共に世界の課題が私たちの前に押し寄せ、そして閉会と共にそれらの課題もまた私たちの前から引いてしまった感があります。しかし、それでも洞爺湖サミットは、今日人類が地球規模で深刻な問題に直面していることを知らせました。特に気候温暖化(気候変動)の問題や貧困の問題は、私たちの生存を脅かす深刻な問題を提出しています。また、今日のオイル価格の上昇は多くの人々の生活を直撃し、食料品価格の高騰をもたらし、国内では漁民の生活を脅かし、世界規模では食べられる人と食べられない人の問題を生み出しています。

イエス様は弟子たちに、祈るときにはこう祈りなさいと言って「主の祈り」を教えられました。私たちも礼拝の中で先ほどご一緒に「主の祈り」を祈りました。この主の祈りの中には、「私たちに必要な糧を今日与えてください」(マタイ611節)という祈りが含まれています。「糧」は、「アルトン」というギリシャ語が使われています。これは一般的に食べ物をさす言葉です。当時のユダヤ社会ではパンを

さす言葉だと理解できます。聖書の中では、霊的な食べ物を指す場合もあります。そしてイエス様は、アルトンという言葉の前にギリシャ語で「エピウソン」(「必要な」の意)という修飾語を使われています。今日の必要な食べ物を与えてください、という祈りです。お腹一杯食べさせてくださいとか、ご馳走をもっとというのではありません。

資料によると、日本人の食べ残しは、年間で2,000万トンに上ります。世界各国がなしている食糧援助が合計年間1,000万トンだそうですから、私たちは、その2倍の食べ物を食べ残していることになります。また、年間海外から5,800万トンもの食糧を輸入しています。これらの数字は、私たちが必要以上のものを取っていることを示しています。

イエス様はヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、その後荒れ野で悪魔の誘惑に遭われたことが3つの福音書に記されています。イエス様が空腹を覚えられたとき、悪魔はイエス様に「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言ったことに対してイエス様は、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言って悪魔の誘惑を退けられました。実際私たちは、日々の生活の中でパンのために汗して働いています。そしてこの主の祈りは、聖書の中では、この荒れ野の誘惑の物語のあとに置かれています。ここでは河上肇の「貧乏物語」の中の「人はパンのみによって生きるにあらず、されどパンなくして生きるにあらず」という言葉を思い出します。私たちはパンだけで生きるものでないと知りながら、日々のパンの問題で悩んでいるのが現実です。

イエス様が教えられた主の祈りの「必要な糧を今日与えてください」という祈りは、私たちのその日その日の糧は私たちの力で獲得すべきものではなく、神から与えられるものだという内容が含まれています。戦後農業を切り捨て工業化を目ざしてきた日本は、今日食糧自給率が30%になり、食糧は海外からお金を出して買うもの、私たちの経済力で獲得すべきものという考え方になっています。農業が如何に自然の恵みの下に成り立っているのかを忘れています。イエス様が私たちに教えておられることは、日々の食べ物を求めることと、霊的な心の充足をもたらす食べ物を求めることとは、同じ神への「今日の糧を与えてください」という祈りに繋がる事柄として教えられています。

今日私たちは食糧に関して深刻な二つの問題に直面しているといえます。一つは、食糧を得ることが出来ない人々や、農作物を植え付けるために種や肥料を買うことが出来ない人々の問題です。もう一つは、近い将来お金があっても食糧を買えない問題が起こりうる可能性です。このまま行くと開発途上国の貧しい人々は前者の問題に直面するでしょうし、食糧自給率の低い日本などの場合は、後者の問題に直面するかもしれません。

今日のヨハネ福音書は、私たちにとってその日その日の食物を与えて下さる方と、私たちに霊の食べ物を与えてくださる方とが、同じ一人の方からもたらされることを語っています。イエス様は、651節で「わたしは、天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」といわれています。私たちにとって生命を維持するために食べ物は必要です。そして同時に私たち信仰者として私たちのいのちを充足させる生きたパンに連なる必要があります。それは私たちを生きるように前へ押し出す力です。ヨハネ福音書を通してイエス様は、「私が生きたパンである」と語っておられます。私たちは、この生きたパン(イエス・キリスト)に連なることによって、そこからいのちを頂き、イエス・キリストのみ心に従って歩む者でありたいと願います。

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