主イエスと「をんな」

 2011.5.29() 信徒証言

 紫垣 喜紀

新約聖書には、およそ20人の女性が登場するのだそうです。私は数えたことはありません。“マリア”や“マルタ”といった固有の名で呼ばれる女性のほか、“カナンの女”、“サマリアの女”など土地の名で呼ばれる女性もいれば、“罪深い女”、“貫通の女”、それに“やもめ”などと呼ばれる女性も出てきます。

この数少ない女性の中で、マリアという名前の女性があちこちに登場します。

大工ヨセフの妻マリア、イエスの母です。ベタニアにもマリアがいました。高価なナルドの香油をイエスの足に塗った女性です。それからイエスの復活を最初に見たマグダラのマリアという人もいます。

この他にも、ゴルゴタの処刑場に来ていた人の中に、母マリアの姉妹でクロパの妻マリアというのも出てきます。兎に角、マリアはたくさん出てくる。

今日は、これらのマリアの中から、普段、証言ではあまり触れられない「イエスの母、マリア」を取りあげて、お話しさせていただきたいと思います。

 イタリア旅行に行かれた方なら、多分、ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂を訪ねられたのではないかと思います。

カトリックの総本山です。聖堂の入口を入ってすぐの右の側廊に、有名な彫刻が置かれています。ミケランジェロ25歳の作品『ピエタ』です。十字架から降ろされたキリストを、母マリアが抱きかかえている姿が彫られています。

『ピエタ』は高さ1m75cm、幅は2mほどあります。大きな大理石の一枚岩を削って創られました。制作に2年かかり、ミケランジェロ最高傑作の一つだと言われております。大変美しい彫刻です。

しかし、『ピエタ』は見方によってはとても不思議な彫刻です。イエス受難の時、マリアは50歳に近い歳になっていたはずです。当時の50歳といえばお婆さんです。そのお婆さんが、イエスの遺骸を軽々と抱きかかえるという不思議な構図です。

しかも、マリアが、驚くほど若々しく、神々しく仕上げられている。息子のイエスよりよほど若々しく創られているのです。それでいて、全体としては不自然さを感じさせない。まあ、難癖はいろいろとつくのですが、それが芸術というものでしょう。

ミケランジェロが、どんな思いを込めてこの『ピエタ』を彫りあげたのか。見る人の想像力を駆り立ててくれます。ちなみに、『ピエタ』というのはイタリア語で、「敬虔な心」という意味であります。

さて、聖書を読みますと、私たちは意外なことに気がつきます。

イエスと母マリアの関係は、そう美しく記述されておりません。世間一般に見られるような、母と子の優しく親密な関係というものが一行も書かれていません。むしろ、イエスは母マリアとの間に、厳しく一線を引いている。常に母との間に距離をおいている。イエスが母を突き放しているようにすら見えます。

あのイエスのことだから、さぞ母親を大切にして、よく面倒をみたのだろうと考えがちですが、事実は逆です。そんな綺麗事が聖書には一切ないのです。

イエスは生涯を通して、母マリアを「わが母」とは呼びませんでした。

「母上、母、お母さん、おっかさん、母ちゃん、お袋」。

そんな言葉を一度も使っていません。

常に「婦人よ」という一般的な名前でしか呼びかけていないのです。

聖書の中で、イエスと母マリアが会話を交わす場面は、そんなに沢山はないのですが、その数少ない場面の一つが「カナでの婚礼」に出てきます。

ヨハネ福音書の2章です。大変有名な話の一つなので、ご記憶にあるかと思います。

イエスと母マリアは、ある結婚式に招かれます。その席上での会話です。

ブドウ酒がなくなったので、母がイエスに伝えます。「ブドウ酒がなくなりました」。この一言ですが、これは大変暗示的な言い回しです。

マリアは、かつて天使ガブリエルから受胎を告知されていますので、自分の子どもが“ただ者ではない”ことは知っています。ですから「ぶどう酒がなくなりました」と言った裏には「あなた、何とかしてあげたらどうですか」という意味が込められているわけです。これに対して、イエスは何と応えられたでしょうか?

「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

イエスは、「余計なことを言わないでほしい」と言わんばかりの]

不快感を露(あらわ)にしておられます

これは新共同訳ですから、表現がまだ柔らかい。

そこで文語訳を読んでみましょう。そこにはこう書かれています。

“イエス言い給ふ「をんなよ、我と汝となにの関わりあらんや。我が時は未だ来たらず」”  

高飛車な口の利き方です。普通の息子が、母親に向かって言う言葉ではありません。母マリアは生涯に幾度となく、こうしたイエスの「冷遇」「冷たい仕打ち」を甘受しなければならなかったようです。

 こうした傾向はイエスの少年時代にも表れています。

ユダヤ教には「過越しの祭り」という祭りがあります。両親は毎年、「過ぎ越しの祭り」には、イエスをつれてエルサレムの神殿を訪ねました。イエスが12歳のときのことです。そこで一騒動持ち上がりました。イエスは両親を置き去りにして三日間エルサレムで行方不明になってしまったのです。両親は必死に捜しましたが見つからない。彼は神殿の境内で学者たちと論争していたのです。

母マリアは言いました。「なぜこんなことをしてくれたのです。お父さんも私も心配して捜していたのです。」

イエスは言われました。「どうして私を捜したのですか。私が、自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

このやりとりは、ルカの福音書2章に書かれています。

しかし、「母はこれらのことをすべて心に収めていた。」とあります。

これは重要なところだと思います。母マリアは、意味はわからなかったけれども、何か大切な事を言ったのだろうという予感がしたので、記憶したのです。

イエス12歳の時に、こういう状態でしたから、イエスが成長するにつれて、マリアは屡々、この種のとまどいと不安を経験したに違いありません。自分から離れていく息子をただ呆然と凝視するだけの母だったのです。

 ここで、一言、注釈をつけておかなければなりません。
私たち、現代のクリスチャンは、イエスが、神のひとり子だということを知っています。そんな予備知識を持って、聖書を読んでおります。

しかし、2000年前の人々はそんなことは何も知りませんでした。

母マリアですら、イエスが特別な子どもだという自覚はありましたが、“神の子”だとはっきり認識していたかどうかは、疑問です。

イエスは弟子たちに「自分が主である」ことを示されますが、弟子たちは最後までそれを悟らなかったのであります。

多くの人々は、ダビデやソロモンのような政治指導者としての働きをイエスに期待していました。

彼らが「イエスは神の子」とはっきり認識したのは、イエスが十字架にかけられ復活された後のことです。

当たり前のことですが、そのことを押さえて聖書を読まないと、理解が散漫になってしまいます。

 さて、聖書の中には、時にどきっとさせられる記述に出会います。

マタイの福音書の第10章などもその一つです。

「平和ではなく剣(つるぎ)を」という小見出しがついています。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。

平和ではなく、剣(つるぎ)をもたらすために来たのだ。

わたしは敵対させるために来たからである。

人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。

こうして、自分の家族の者が敵となる。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。

わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。

また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。

自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

この部分の解釈はこの際省略しますが、いずれにしましても、私たちの道徳観や倫理観とおよそかけ離れたことが書かれています。その過激さに度肝を抜かれてしまう箇所です。

キリスト教を知らない人が読むと、躓きやすいところです。

当時、イエスからこの話を聞いた弟子たちも、何ということをおっしゃっているのだろうと、訝(いぶか)しく思ったに違いありません。

ところが、イエスは、自ら語ったことを自ら忠実に実践されていくのです。

イエスは洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けられました。

洗礼というのは、肉による誕生ではなく、霊による誕生、第二の誕生です。

肉体的な意味においては、イエスはマリアの子どもでありますが、彼の精神は“天の父”から授けられたものになりました。

洗礼を受けてから、イエスは一切を捨てて父なる神に従っていくのです。

イエスにとって、父なる神への奉仕は、肉親への愛を超えるもの。そうでなければならなかったのです。

イエスは、家族に尽くすために地上に降りたのではなかったのです。

イエスの洗礼は、まさに家族との別離の宣言でもありました。

そして、父なる神の御心にそって、イエスは「人類全体への愛」「人類救済」という重い十字架を背負われたのです。一切を捨てて、イエスは人類のために死ぬ決意をされたのです。

イエスが家族との縁を絶ったことを証明する小さなエピソードがあります。

マタイ福音書の12章。「イエスの母、兄弟」という見出しがついています。

イエスは群衆に話しておられました。

そのとき、母マリアと兄弟が外に立っていました。

それを見つけた人が「母上とご兄弟が外に立っておられます」とイエスに知らせます。

お節介な人というのはどこにもいるのです。

するとイエスは言われます。

「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そう言われました。

そして、「だれでも、天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、母である。」

イエスはこのように言い放たれたのです。

母マリアはなすすべもなかったことでしょう。平凡な母親にとって、これほど不幸なことはありますまい。聖霊によって身籠もった女は、「手に負えない息子」を生んでしまったのです。

母マリアは、よくわからないままに、こうしたイエスの離反を「受難」と感じていたに違いありません。

 イエスがゴルゴタの刑場に引かれて行くとき、弟子たちのほとんどは逃げ去りました。

わずかに、愛弟子のヨハネと母マリア、マグダラのマリアら数人の婦人が、イエスの死を見守りました。

臨終のイエスは目の前の母に向かって別れの言葉も告げず、個人的な愛情を示すこともありませんでした。ただ、磔(はりつけ)になったイエスが、母イエスと弟子のヨハネに声をかけられる場面が一カ所あります。 ヨハネ福音書の第19章です。

イエスは、母とそのそばにいる、愛する弟子とを見て、

母に「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。」といわれた。

それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」

そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

ここも、文語訳で読んでみましょう。

イエス、母に言い給う『をんなよ、視よ、汝の子なり』

また、弟子に言い給う『視よ、汝の母なり』

ここでも、イエスは不思議なことを言っています。マリアに対しては「ヨハネを息子にせよ」と言っている。ヨハネに対しては「マリアを母とせよ」と言っているようです。

下世話な表現をすれば、弟子のヨハネは“イエスから母親を譲り受けた”ことになります。

この言葉の神学的な意味はわかりませんが、イエスは母を、弟子のヨハネに託したようであります。

その解釈もいろいろあるのでしょうけれども、私にはイエスが肉親との縁を、死に際に完全に断ち切ったように見えます。

 イエスの磔(はりつけ)の刑は、ゴルゴタの刑場で行われました。処刑が始まった時間は、福音書によって違いますが、最後はローマ兵がイエスの横腹に槍を入れて午後三時に終わりました。

マリアは顔を覆い、打ちひしがれました。

 古代ローマの磔の刑は、両手を釘で十字架につける残酷なものです。手の出血は致命傷になるのではないそうです。本当の死因は、不自然な姿勢からくる血液の循環障害によるものとされています。

激しい頭痛と心臓の苦痛が長く続き、焼けるような喉の渇きに襲われるといわれます。

想像される十字架上のイエスの姿は酸鼻(さんび)をきわめたようです。

刑場にのぞむ前にも、茨の冠をかぶせられ、むち打たれ、殴打され、唾を吐きかけられました。身体のいたるところに打撲傷があり、顔は紫色に腫れ上がっていたことでしょう。

十字架の周囲には、祭司、学者、長老、群衆が集まり、「神の子なら、十字架から降りてこい」と口々に嘲笑(あざわら)いました。

最も高潔な魂を持つイエスが、最も残忍で屈辱にみちた死を遂げていったのです。母マリアは、その一切の目撃者です。マリアの心臓は張り裂けんばかりだったでしょう。

何のために、息子はこのような残忍な死をとげなくてはならないのか? 

天におられる父の愛とは何なのだろうか? これがその結末なのであろうか? どこに祝福があるというのか? どこに母の幸いはあるのか?

顔を覆い、慟哭のうちに、母マリアは幾たびも心に反問したことでしょう。地獄の苦しみでありました。

しかし、この反問に、マリアはやがて明確な答を見出したと、私は考えます。

大工ヨセフの妻で、凡庸な母マリアは、イエスの「冷たい」とも思える態度に、多くの愚痴と不満と疑惑を抱いてきたに違いありません。

しかし、イエス受難の日が、彼女を覚醒させる決定的な日になったと思います。悲惨なイエスの死が、マリアの心を劇的に変えたのです。息子の死は、生前イエスが語った一言一句(いちごんいっく)をはっきり思い出させました。イエスが一番大切にしていたことすべてを、生き生きと思い出させることになったのです。

その日、彼女の目に映った一切は、長い間の「冷遇」にひそむイエスの念願、愛のまことを、鮮やかに告示したはずです。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

マルコ福音書の第10章です。マリアは霧が晴れたように、すべてを悟ったはずです。

イエスはすべての人の僕となるために来た、人々の罪や汚(けがれ)れを償い、神との交わりの破れ目を修復し、神の愛に目覚めてもらうために来た。

イエスはそう語っていたのだと、マリアは確信したのです。母マリアは、苦痛の底から蘇り始めました。

マリアが、わが子を神の子として、心の中でしっかりと抱擁したのは、おそらくこのときでしょう。

冒頭、十字架から降ろされたキリストを抱くマリアの彫刻を紹介いたしました。サン・ピエトロ大聖堂に置かれている『ピエタ』の彫刻です。

マリアが苦悶のあと、イエスを神の子と確信したときの清々(すがすが)しさ、清らかさが表現されている。

私は、『ピエタ』からそのようなイメージを連想いたしました。

 イエスの受難、復活、そして昇天。こうした出来事の後、マリアの人生はどうなったのでしょうか。詳しいことはわかっておりません。想像ではありますが、イエスの弟子たちは、愛と尊敬をもってマリアを守り、イエスについて多くのことを聞いたのだろうと思います。

マリアの口から漏れたさまざまな言葉は、福音書の作者たちにとって大切な資料となったことでしょう。

しかし、ユダヤ教から脱皮した新興宗教キリスト教への風当たりは実に強い。迫害にあって、ペトロをはじめ弟子たちは次々に命を落としていきました。

十二使徒のなかで殉教せずに生涯を全うしたのはヨハネただ一人です。ヨハネは十字架に架けられたイエスから、「マリアを母」とするように託された、弟子です。「ヨハネ福音書」や「ヨハネ黙示録」の作者ともされています。

ヨハネは、島流しにされていたパトモス島から解放されたあと、晩年は小アジア、いまのトルコのエフェソで過ごしたといわれ、94歳で亡くなっています。

そして、ヨハネが世話をしていたマリアの最期もエフェソではないかと伝えられています。

ただ、これは史実ではなく、あくまで伝説でございます。

最後に、「マリア」の扱いについて、プロテスタントの教会とカトリックの教会では、まったく異なっていることを指摘しておきます。

 「聖母マリア」という呼び方は、カトリック教会の用語です。カトリック教会や東方正教会は、マリアを「聖人」(「聖母マリア」)として崇拝しております。これらの教会では、聖母マリアに神への執り成しを求める祈りが捧げられます。また、「聖マリアの誕生」(98日)や「聖母被昇天」(815日)を教会の記念日・祝日と定めているそうです。

 これに対して、プロテスタント教会の「マリア観」は異なっております。プロテスタントの教会は宗教改革によって、ローマ・カトリックの権威を拒否してスタートしました。聖書だけが大切。最も大切なもの。聖書を教会の拠るべき唯一の正典とし、ただキリストを信ずる信仰が、プロテスタント教会の根本理念であります。

ですから、マリアを聖人として祈りの対象にしているカトリックの神学「聖母神学」を、聖書に基づいていないとして否定しました。聖人の概念を受け入れないのです。

わたくしたちプロテスタントの教会は、イエスの母としてマリアに敬意を払いつつも、マリアはあくまで私たちと同じ人間だとして、特別扱いをすることはせず、崇拝の対象にしていないのです。

少し長くなりましたが、以上で、「主イエスと母マリア」の話を終わらせていただきます。

一言、お祈りします。 

主イエス・キリストの父なる神様  今日も、聖日の礼拝を守れましたことを感謝いたします。

あなたは、わたしたちの罪をつぐなう“いけにえ”として、御子を遣わしになりました。

イースターが終わり、間もなくペンテコステを迎えようとしている今、あらためて、その意味を考えることができましたことを感謝いたします。主イエスは、十字架の死に至るまで、あなたに従順でした。

私たちもイエス・キリストに従い、あなたの御心にかなうような信仰生活が守られますようにお導きください。あなたの御霊(みたま)をわたくしたちすべてに注ぎ、私たちの生活があなたの力によって強められ、あなたの知恵によって賢くされあなたの愛によって美しくされますようにお導きください。

主イエス・キリストの御名によってお願いします。  アーメン                          []

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