『本当の自由』 20124.29

嶋田 律之牧師

(桜美林大学チャプレン)

ヨハネによる福音書83138

真理はあなたがたに自由を得させるであろう。(33節)

@    ドイツの新大統領

この3月に、私が昔長く住んでいましたドイツの大統領に、ヨアヒム・ガウクという人が就任されました。この人は牧師です。牧師が国家の長となったということは、牧師は素晴らしい人格を持っているということを世間がだんだんと認めてきたのか、それとも、単なる人材不足なのか、その理由はよくわかりませんが、このことは私にとって意外な出来事だったのでした。

 それはさておき、このドイツの新しい大統領となったガウクという人は、自由の人、と呼ばれています。というのも、ガウクさんはもともと、旧東ドイツの牧師だった人で、1989年に起こった、平和革命、旧東ドイツが民衆によって平和の裡に倒されたときの、平和運動のリーダーの一人だったからでした。このガウクさん自身も、自分の生涯のテーマは自由ということだと、彼の大統領就任の演説の中でも、語っています。

 この演説の中で、ガウクさんは自由とは正義の条件である、と言っています。ドイツという国は、自由を前提とした正義の国でなければならない、ということです。そしてここで言われている、正義というのは、公平さと、公正さであり、簡単に言えば、ドイツは人々が偏りなく公平に、そして、ごまかしのなく、生きることのできるのでなくてはならないというのです。

少しその演説の部分をご紹介いたします。

ドイツは、「社会的公正(公平)、社会への参加、向上のチャンスができること、この3つの点を結び合わせる国でなければならないのです。」そして、「そこに至る道は、家長が家族の面倒を見るような福祉政策への道ではなく、将来への備えをし、権限をゆだねる社会福祉国家としての道です。私たちは、機会均等でないために、子どもたちが才能を伸ばせないというようなことを許してはなりません。成果をあげてもそれが報われることはないとか、力の限り努力しても昇進の道は断たれている、と思わせるようなことがあってはなりません。

自分は貧しいから、年をとっているから、障害があるから社会の一員ではないのだと感じるようなことがあってはなりません。」そういう国となってはなりません。

そのためには、「自由は、公平、公正であるための必要条件です。社会的公正も含め公正が意味することは、そして公正に少しでも近づくために私たちがなすべきことは、上から命令で決められるものではなく、集中的かつ民主的に議論や討議を行う中ではじめて明らかにされうるからです。」

 私たちの現代において、特に、日本においては、自由は、この名のもとに、不安や格差を

引き起こしている原因です。人に不安や格差、不公平を引き起こしている、この自由とは、自分勝手、あるいは、他の人、他の事は、自分とは関係ないと考えることです。自分だけ良ければいいのだという自由です。

しかし、ガウクさんが言うように、自由は公平さ、公正さの前提です。これをキリスト教的に言い換えますと、偏りのない公平さ、ごまかしのない真実な公正さは、愛ある社会ということであり、自由はいつも、この愛のある社会の実現へ向けられていなければならない、ということです。

何者からも拘束されない、自由とは、自分のためにではなく、愛のある社会の実現のために、私たちは持っていなければならないのです。そう、ガウクは牧師として、大統領就任演説で言いたかったのだろうと思います。

A     律法と罪から自由なイエス

さて、それでは、今日の聖書の箇所から、聖書における『自由』について考えてみたいと思います。今日の聖書の箇所は、前の段落から引き続いて、イエスは何者かということがテーマとなっています。そして、冒頭において、すでに、イエスは何者かというここでの答えが提示されています。つまり、イエスとは、彼の言葉にとどまり、それを真理として知る人を、自由にする者であると。

ここで、「とどまる」という言葉は、よく知られていますように、ヨハネ福音書にとって特徴的な言葉です。そして、この福音書の中では、この「とどまる」という言葉は、日本語で様々な訳が与えられています。例えば、よく私たちが知っているブドウの木のたとえがあります。

「私につながっていなさい。私もあなた方につながっている。」というイエスの言葉の中の、「つながっている」は、「とどまる」と同じ言葉です。この言葉は、イエスの言葉を単に覚えているとか、知っているという意味ではありません。そうではなく、イエスの言葉の中で実際に生きる、イエスの言葉に自分のすべての営みを重ね合わせていくことです。ですから、キリスト教の初期のころの教師たちは、この言葉を「忍耐」「我慢」とも訳しました。

私たちの現実には、いつでも、イエスの言葉の外に出ていかざるを得ませんし、また、自分から出て行ってしまうこともあります。しかし、そこで我慢、忍耐してイエスの言葉の中に「つながっていること」「とどまる」ことが求められています。だから、ある人は、ブドウの木につながっているものは、その忍耐によって、その人の人となりは熟成され、おいしい、見事なワインのような人となっていく、と言いました。

しかし、それではまだ、今日のテーマである聖書の自由についてわかりません。でも、その次の「イエスを信じたユダヤ人」たちの言葉が聖書の自由について知る大きなキーワードとなっています。彼らは言います。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」と。

この言葉の中には、すぐわかりますように、自分たちがユダヤ人の血をひくものである事への誇り、あるいは、それ以上に傲慢さというものも感じられます。しかし、それに対して、イエスはお答えになります。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。」と。

この言葉のまず後の方の言葉の背景には、創世記21章にあります、アブラハムの妻サラの女奴隷であったハガルと、アブラハムとの間に生まれたイシュマエルの話が含まれています。アブラハムの妻、サラははじめ子供が与えられなかったのですが、後にイサクが与えられました。

それゆえに、最初はいわば大目に見ていた女奴隷ハガルとその子イシュマエルの存在がやがて、うっとうしくなり、結局彼女らを家から追い出したのでした。ここではその背景と重ね合わせて、アブラハムの子孫全体を罪を犯す、罪の奴隷として、主イエスは考えるのでした。

なぜなら、アブラハムの子孫、ユダヤ人全体は、律法のもとにある民族、それゆえ、律法によってその違反、罪が常に付きまとうものとして、イエスは見ているからです。神の完全な律法に支配され、拘束されている有限な人間は、それを遵守することができないために、絶えず律法違反者として、赦されえないものとして、罪あるもとして告発される者だからです。そのような人間は家に、神の家にとどまることはできず、出ていかざるを得ないのです。

しかし、それとは反対に、子はいつまでも神の家いるのです。なぜなら、主イエス・キリストは、律法の主であり、むしろ、律法の精神である愛の主、赦しの主、であるからです。イエスは、罪の奴隷ではなく、むしろ、罪から全き自由なものだからです。ですから、ここで、イエスの自由には、罪から解き放つ、赦しを与える、ことが含まれているのです。

B死の定めから自由なイエス

じつは、この「(罪の)奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。」という言葉と関連して、今日の聖書の箇所の前後に、3回、イエスの発言として登場する「わたしはある」という言葉は同じことを暗示しています。この言葉は、出エジプト記 / 3章 で神がモーゼに示した神の名前であります。よくわかるのは、8章の48節のところに「アブラハムの生まれる前から「わたしはある」」という小見出しが新共同訳聖書ではついています。   

それは一言で言えば、先在のキリスト、あるいは、この教会の名前と同じように、すべてのものよりも先に存在するロゴスとしてのキリスト、と言われることです。

さらに詳しく言いますと、イエスのこの発言は、御自分は、この世のすべての死すべきものに対して、イエス自身、そして、イエスと一つである父なる神の永遠の存在を自己告白しているのです。少し後の52節に、「アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『私の言葉を守るなら、その人は決して詩を味わうことはない』と言う。私たちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」と、ユダヤ人たちに、聖書は言わしめてます。これらの言葉は、逆に、しかし、イエスが何者であるか、イエスの正体は、アブラハム、預言者たち(小文字の父)の血をひくものではないことを意味させています。アブラハムは死んだ、そして預言者たちも死んだ、しかし、イエスは、「神の言葉と一つのものとして、決して死なない」ものであることを、自己告白しているのです。

それは、すべての生成消滅する死すべき者たちの系列よりも、先に「あり」、それゆえ、その生成消滅するというこの世の原理からは自由なもの、それとはかかわりなく永遠に『私はある』ことができるものであること、永遠の存在であることを、告白しているのです。ですので、イエスの自由は、死からの自由、永遠という自由を持っているのです。

C 神にとらわれているという自由

これまで、イエスが何者であるのかを、自由ということから、お話してきたのですが、それは、イエスとはアブラハムや預言者の系列から自由である者と言えます。それは、律法の支配からも、また、その根底にある生成消滅するもの、死にゆくもの達からも、解放されている者です。しかし、このことだけが言われているのではありません。ヨハネ福音書全体に言えることですが、イエス・キリストが何者であるかは、常に、イエス自身が、父なる神と一つである者、と告白しています。今日の聖書テクストの最後の言葉にも、「わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」と主イエスは言われています。ここで、最初の「父」は父なる神を指しますが、後の方の「父」はアブラハムあるいは、弟子たちの先祖の事を意味しています。つまり、イエスは天の父なる神様と一つであるが、ユダヤ人たちはそうではなく、むしろ、彼らの先祖のアブラハムの方に従っているのです。

  

主イエスは、父なる神と一つであり、このことを言い換えると、イエスはこの神によって完全にとらえられているのです。主イエスは神によって完全に拘束されているのです。ここにこそ、イエス・キリストの自由があります。神によって、一つとなるほどに、完全にとらえられ、拘束されているという、自由があるのです。その意味では、イエスは罪の奴隷ではなく、むしろ、神の奴隷という自由を帯びているのです。そして、それこそは、イエスみずから父を愛する姿でもあるのです。

イエスの自由、本当の自由とは、罪からの自由でした。言い換えますと、罪を赦すという自由でした。また、もう一つは、死からの自由、言い換えますと、永遠という自由でした。そして、最後に、そしてそれらをすべてまとめて、主イエスの自由は、父なる神と一つであること、言い換えますと、父なる神によって一つとなるほど捕えられているという自由だと、言えます。

そうであるならば、私たち、聖書の言葉にとどまり、つながって生きようとするキリスト者の自由も同じです。私たちの自由は、私たちが主イエスと一つとなるほどに、とらわれることの内にあります。主イエスによって私たちが拘束されるという自由、がんじがらめにとらえられるという自由です。パウロは、それゆえ、「主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです」と私たちに言っています。

 これがキリスト者の自由であり、この自由の中に私たちがとどまるとき、私たちは、「すべての者の上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない」ものであると同時に、私たちは「すべてのものに奉仕するしもべであって、だれにも従属している」ものであることができると、ルターとともに言えるのです。                           アーメン

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