証言

行って同じようにしなさい

 

山本俊正牧師

(ルカによる福音書:10:25〜37善いサマリア人) 2007年2月11日

国連の統計によると、現在、世界には「難民」と呼ばれる人が、約970万人いるとされています。地域別ではアフカが最大で全難民の30%が居住しており、ついでヨーロッパが25%です。
難民のことを、英語ではrefugeeと言いますが、難民とは、戦争、宗教や民族対立などの理由だけでなく天災や貧困、飢餓などの理由で住む場所を追われた人々のことを言います。現在の国際法においては、紛争や政府の弾圧など迫害を受けるものに対する救済の義務が立法化されていますので、狭い意味で、政治難民を難民と呼ぶ場合もあるわけです。

国外に出ている難民に加えて、国内で経済的な理由で難民となっている人は、国内難民、経済難民とよばれ、世界に約400万人から500万人はいるだろうと言われています。日本は1981年に難民条約に加入し、翌年の1982年に難民議定書に加入しています。これに伴い、それまでの「出入国管理令」を題名も含めて大幅に改正し、「出入国管理及び難民認定法」(入管法)という法律ができています。
この法律を基準に難民の認定手続をしているのですが、入国管理当局の認定基準が非公開且つ非常に厳格で、他国、特に欧米諸国に比べ受入れ人数が少なすぎるという批判がされています。

 すなわち、日本は難民を受け入れないことで大変有名な国になっているわけです。昨年、難民申請をした人は約 1000人余りいたのですが、そのうち認定を受けた人はわずか40名とのことでした。アメリカは9/11事件以降、難民や移民の受け入れに対して厳しくなったと言われていますが、それでも日本の数10倍の受け入れをしています。日本は「難民鎖国」と呼ばれているゆえんです。

 世界では、難民でなくとも、自分の国を離れて仕事などをしている、「移民」「移住労働者」と呼ばれるカテゴリーの人たちも沢山います。移民は世界に約2億人いるそうです。これは、世界人口65億人の30人に一人に当たります。世界の30人に1人は移民です。この世界は定住している人たちだけでなく、常に移動している人たちによっても構成されていることが、よくわかります。

 また、最近の新聞記事によりますと、昨年、日本に入国した外国人は、800万人を突破したそうです。
これはアジアからの観光旅行者が大半だそうですが、韓国、中国、台湾などから入国する人たちが、外国人の上位3位を占めています。日本には現在、戦後からいる在日韓国・朝鮮人を含めて、約200万人の外国人住民が住んでいます。少子化担当大臣の「女性は子どもを産む機械」という暴言、妄言がありましたが、日本の人口は確実に減っており、外国からの労働力の補充をしなければ、やがて現在のような生産力を維持できなくなることから、政府も外国人を日本に移民させることを検討しており、日本は「多文化共生社会」に向かって確実に変化しています。

 私の住んでいるのは府中市ですが、近くに最近、インド人とパキスタン人家族が経営するインド料理店が2軒、オープンしました。今までは、インド料理が食べたいと思ったら、新宿か吉祥寺まで行かねばなりませんでしたが、これからは、近場で、インド料理が楽しめることになったわけです。多くのアジアの人たちは、距離的に言っても、日本の国内での隣人と言えます。

 先ほど読んでいただいたのは、皆さんもよくご存じの「善いサマリア人の譬え」と呼ばれる箇所です。物語をもう一度読み直してみると、「ある律法学者がイエスを試そうとして、なにをしたら永遠の命を受け継ぐことができるか」と聞きます。「永遠の命」とはマタイの福音書やマルコの福音書によく出てくる「神の国を受け継ぐ」と同じ表現で、ルカによる福音書は「神の国」という表現をあまり使わずに、「永遠の命」という言葉で表現しています。ですから、「永遠の命」とは「神の国」と同義語と考えてよいとおもいます。


いづれにしても、律法学者のこの問いに対して、イエスは「律法には何と書いてあるか」と逆に問い返します。ユダヤ人にとって、モーゼの十戒などの律法は、日常生活の行動基準でした。それに対して、律法学者は、有名なレビ記、19章18節をもって答えるわけです。すなわち、「心、精神、力、思いをつくし、あなたの神を愛しなさい。また隣人を自分を愛するように愛しなさい」と書いてあります、と答えます。このレビ記の箇所は、「シュマー」と呼ばれ、当時のユダヤ人たちが、朝夕の祈りの中で日常的に唱える祈りの一部であったことが知られています。イエスは「正しい答えだ、それを実行しなさい。そうすれば永遠の命が得られるだろう」と応答します。これに対して、律法学者は自分を正当化しようとして、と書いてありますが、つまり、自分たちがこの教えは忠実にまもっていることをイエスに認めさせようとして、「では、私の隣人とはだれですか」と聞きます。通常、ユダヤ人にとっての隣人とはユダヤ同胞、ユダヤ民族のことです。これに対して、イエスがお話になったのが、「善いサマリア人の譬え」という話であったわけです。
 
この「善いサマリア人の譬え」話の登場人物を見てみますと、半殺しにされた人(これはユダヤ人です)、神殿に仕えている祭司、それからレビ人、レビ人というのは下級祭司のことです。祭司もレビ人、共に勿論ユダヤ人です。それから半殺しにされている人を助けた人、これがサマリア人です。さらに宿屋の主人(多分この人もユダヤ人)が登場するわけです。皆さんは、この登場人物のどれに当たるでしょうか。 随分昔に、アジアのYMCA関係者が集まる会議が香港であり、それに出席したときにグループでの聖書研究の時間があり、この「善いサマリア人の譬え」がテキストになっていました。ある参加者が、YMCAはホテル事業もやっているので、YMCAは宿屋の主人ではないかと言いました。YMCAは社会問題の解決ために前衛的な働きをするよりは、傷ついている人を直接助けることができなくとも、宿屋の主人のように後方支援する役割が社会の中であるのではないか、と発言していました。なるほどなと思いました。また、経済的に苦しんでいる国から来ていた参加者は一同に、自分たちの状況は半殺しにされた人と同じだといいました。また、ある参加者は助けたいと思っていても、いろいろ忙しくて、無視して通りすぎてしまうことがよくあるので、自分は祭司やレビ人と変わらないと告白していました。

私に発言が求められた時、私は、次のようなことを言ったのを覚えています。「アジアに対する日本の関わりを考える時、このたとえ話の中の登場人物としては、出てこないが、日本は、または日本人は、倒れている人を半殺しにした張本人、強盗ではないかと思う」といったわけです。当時、日本はエコノミックアニマルなどと言われ、アジアへの経済進出が批判されていましたので、私の発言に苦笑する人は多くいましたが、そんなことはないと言ってくれる人は、一人もいませんでした。

 この「善いサマリア人の譬え」を理解するには、いくつかのポイントがあると思いますが、その中の一つで、とても大切だと思うことは、当時のユダヤ人とサマリア人との関係からこの物語の意味を捉えることだと思います。歴史的に見ると、サマリア人は紀元前712年にアッシリア帝国によって滅ぼされ、アッシリアの属領になったことが知られています。
有名な話ですが、アッシリア帝国は占領政策により、民族混交運動、民族をごちゃ混ぜにする異民族との雑婚を進める政策を取っていました。これは、紀元前700年代の出来事ですから、元来はユダヤ人であったサマリア人もイエスの時代においては、この政策の結果、ユダヤ民族ではなく、サマリア人と呼ばれるようになっていたわけです。ユダヤ民族は日本人同様、血のつながりを重視しますので、雑婚していたサマリア人に対しては、差別をし、ユダヤ人とサマリア人の関係は犬猿の仲にあり、ユダヤ人から見れば、サマリア人は軽蔑すべき異民族であったわけです。そのサマリア人が差別をしているユダヤ人を見て、「憐れに思い」、助けたのです。この「憐れに思い」という箇所は、岩波書店から出ている聖書には「断腸の思いに駆られ」と訳されています。

 これはなかなか良い訳だと思います。「断腸の思いに駆られる」ということは、腸を切断するほどの痛み、苦しみを感じる、共苦する、共に苦しみを分かち合うという意味が伝わってきます。差別されているサマリア人が差別するユダヤ人を助けたのは、まさに、共に痛みを分かち合い、共に苦しみを分かち合うという最も人間にとって大切な感性を基軸としていることがわかります。断腸の思いに駆られた、善いサマリア人の行いは、私たちの隣人を愛すること、隣人愛ということは、対立を越える愛であるということです。苦しみにある人を見た時、私たちはその人が自分を差別し、迫害する民族に所属しようと、しまいと、「憐れにお思い」、「断腸の思いに駆られ」、その人に手をさしのべることが求められているのです。

 この「善いサマリア人の譬え」は人道支援の根本的な原理を示す聖書の箇所であると良く言われます。北朝鮮への人道支援で、日本政府はこの間、北朝鮮には、「拉致問題」が解決するまで、人道支援をするべきではないと、言い続けています。
また、マスコミも
この論調に同調しています。しかし、飢えて、倒れてゆく北朝鮮の人々には、「拉致問題」も、ミサイルの実験も、核実験をすることなども、無関係の出来事であることは言うまでもありません。人道支援とは無条件の支援です。「拉致問題」が解決したら「お米を送りましょう」というのは政策支援で、人道支援ではないのです。


 この物語が私たちに示していることは、「隣人愛」とは、同じ場所で同じ暮らしをしている人同士の愛でもないということです。同じ民族だから助けるとか、同じ人種だから助けるというのではないのです。「憐れに思い」、「断腸の思いに駆られ」、その人に手をさしのべるわけです。隣人とは、定義できる「名詞」ではなく、私たちの行動によって示される「動詞」であることをイエスは伝えています。
 当時のユダヤ人にとって、行動の規範となるのは、律法でした。ユダヤ人は神との約束で、神から選ばれた民として大きな恵みを受ける代わりに、神の意思が記されている律法に従い生きる義務があったのです。それが、正しい信仰者の姿であると信じていました。
 ですから、神の意思に従う律法でどのように事柄が規定され、定義されているかが最も重要な事柄だったのです。「隣人とは誰のことか」と定義を求める律法学者に対して、イエスは2度にわたって、一度目は、律法に書かれている、ゴールデンルール、黄金律である、「心、精神、力、思いをつくし、あなたの神を愛しなさい。また隣人を自分を愛するように愛しなさい」それは正しい答えであり、それをすぐに実行しなさいと命じています。2番目は、「それでは、隣人とは誰のことですか」と定義を聞く律法学者に、サマリア人のたとえ話をお話になり、最後に「行ってあなたも同じようにしなさい」とやはり行動を促しているわけです。

 
この「善いサマリア人の譬え」を読むたびに、2つの出来事を想い起こします。その一つは、2001年にJR新大久保の駅で起きた事件です。覚えている方も多いと思いますが、酒に酔った男性がホームから線路に転落し、彼を助けるために、2人の男性が線路に飛び降りましたが、この二人とも、酔って転落した男性と一緒に駅に入ってきた電車にはねられて、命を失ってしまったという出来事です。当時、マスコミで大きく報道されましたが、その原因の一つは、助けようとして線路に飛び降りた男性の一人が、韓国人の若者であったということでした。勿論、当時から自己中心的な少年、若者たちが多い中で、若者が他人の命を救おうとした行動が感動的であったこともありますが、救いの対象となった日本人から見れば、かつて祖先が差別の対象となっていた旧植民地支配をした韓国の若者であったことです。この韓国からの留学生であった若者は、過去の支配、被支配の関係、日本での在日韓国・朝鮮人への差別の歴史、また国境を越えた隣人愛のモデルとして、日本ばかりでなく、韓国では更に大きく賞賛されました。この事件を題材にして、私はまだ見ていないのですが、現在、「あなたを忘れない」という映画が上映されているとのことです。映画のコマーシャルではないのですが、私も是非見たいと思っています。瀕死の状態で倒れている旅人のユダヤ人を助けたのは、ユダヤ人から差別を受けていたサマリア人であったことと、この事件はぴったりと重なり合う出来事だと思います。

 
もう一つ思い起こす出来事は、第二次世界大戦中に起きた、デンマークの王様の話です。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの勢力が猛威をふるい、デンマークにも侵攻してきた時、ナチスドイツ軍から、デンマークの市民にある命令が出されました。それは、明日の朝から、デンマークに住むユダヤ人は、外出する時、胸に白いバラのマークを付けねばならないという命令でした。
白いバラのマークを付けないユダヤ人は、問答無用で連行するという命令でした。勿論、この命令はヒットラー政権のユダヤ人を絶滅させる政策に基づくものでした。次の朝、毎日、馬に乗って市内を散歩することを習慣としていたデンマークの王様が、いつものように馬で散歩にでかけたのですが、何と、王様の胸には、白いバラがつけられていたのです。これを見たデンマーク市民、我も我もと、皆が、同じように、白いバラのマークを胸につけ始め、大多数の市民がこの白いバラの印を胸につけて、外出するようになったということです。
これが連帯ということではないでしょうか。これが隣人になるということではないでしょうか。この市民の行動によって、デンマークでは例外的に多くのユダヤ人が命を奪われなかったと、伝えられています。
 マザーテレサは「愛」の反対は「憎しみ」ではなく、「無関心」だと言っています。イエスが言われた、「行って同じようにしなさい」というみ言葉を実行できる者でありたいと思います。

祈り
恵みの神よ、私たちは、日々忙しく、他の人々の痛みや困難を共にすることよりは、無視してしまうことがあることを懺悔いたします。サマリア人のように「行って同じようにしなさい」というイエスのみ言葉を実行できる者とさせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

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